桜花の散

　雲海の上、春の霞がかった空の上を、騶虞に乗った二人連れが、雁国を目指して進む。並んで飛行する延麒が主に声を掛けた。
「あーあ、お前、振られちまったなあ」
　気の毒そうに聞こえないよう、あえての大きな声だった。
「まあ、落ち込むなよ。長生きしてたら、またいい女と巡り合えるさ」
「なんの」
　彼の主も明るく返した。
「花は散るから美しいのだ。別に実らなくても、恋という花が咲いている間はその花を愛でればよいのだ」
　主のいつも通りの明朗な声音に、延麒も安心してからかうことができる。
「負け惜しみなんか言っちゃって」
「……俺は雁という花を五百年間咲かせ続けてきたのだ。ならば他の花の散るのを見て季節の移ろいを楽しませてもらうのも良いではないか」
「尚隆……」
　延麒の声はかすかに不安を含んだ。
「まあ暇つぶしならいろいろできたがな。隣の慶にはイキのいい女王がたった。彼女は俺に、雁以外の他国の小間使いまでやらねばならん前例を作ってしまった。俺の仕事は増えたわけだ。それに戴にはよい競争相手もいることだしな。驍宗が剣の腕を上げる前に、こちらも錆ついた腕を磨き直しておかねばならん」
　延王は笑んだ。いつもの太く、どこか人を食ったところのある笑みだった。
「よって台輔には憂慮するに及ばない」
「……憂慮ってなんだよ」
「大丈夫だ。俺は雁を滅ぼしたりせんよ」
「尚隆！」
「生き飽く暇などどうやらなさそうだしな。そう、この世には俺に愛でられるのを待ってる花々がたくさん咲いている」
「あれ？　おい、どこに行くんだ尚隆！」
　平行して飛んでいたはずなのに、二人の間は少しずつ離れて行っている。延麒の乗る「たま」の方は真っ直ぐ関弓を目指しているから、尚隆の乗る「とら」が道を逸れているのだ。
「こら、待て、おい！」
「巧を見物に行った時に、なかなかいい女がいたのだ。妓女にしとくには惜しいのような骨のある女だ。もう少しあの女を眺めることにする」
　「とら」はどんどん「たま」から離れていく。それに乗る相手に聞かせるために、延麒は大声を張り上げなければならなかった。
「おおーい。お前、泰王を見習ったらどうだ。ちゃんと嫁さんを迎えた方がいいぞーっ！」
「お前、頭が古いぞ」
　相手も大声を出しているのだろうが、遠くから風に乗って運ばれてくる音は、彼の口の動きほどは大きくない。
「現代の蓬莱ではな。婚姻はしてもしなくてもよいものになっておるのだ。お前の頭は五百年前で止まっておる」
　主はますます遠ざかって行く。
「尚隆―っ！　玄英宮にいるみんなにはどう言えばいいんだよーっ！」
　帰って来た声は遠くかすかだったがはっきりと聞こえた。
「王は花を愛でに行った、と言っておけ」
　呆然と見送る延麒の視界の中で、尚隆と「とら」はやがて黒い点となり、しばらくたってそれも消えた。
「あーあ」
　延麒は嘆息するよりなかった。
　先程まで、地上から桜を透かして眺めていた春の空。その朧な空気の中に浮かんだまま、延麒は腕組みをして考え込んでいた。
「あいつの妓楼好きは、現代蓬莱の価値観ってやつなのか？」
「俺の頭が固い……のかな？」
「やっぱりあいつの考えることは、得体が知れない」
　などと呟きながら。
　首をひねり続けたままの乗り手をよそに、「たま」は大きくあくびをした。うららかな陽の射す、のどかな春の出来事だった。