梅花

　李斎は、その日を忘れることは永遠に無いだろうと思う。その幸せに満ちた一日を。
　――もっとも、この日のことが驍宗との間で話題になる時には、双方の顔にわずかばかり苦笑が浮かぶのではあるけれども。

　その日は驚愕と共に訪れた。
　李斎は、その日の朝、いつもと同じように王の執務室で書物に向かっていた。そして、文州に赴いた驍宗と泰麒の身を案じて過ごしていた。驍宗の出立以来そうであったように、この日もそのまま一日が終るはずだった。そう、庭からその二人の声が聞こえてくるまでは。
　――ご苦労だった。
　――いいえ。
　まさか、この声は――。驚きと共に彼女は飛び出した。無我夢中で廊下を走り、外に転がり出る。
　そこには文州にいるはずの驍宗が微笑みながら立っていた。はあはあと息をつきながら、彼女は視線を彼の全身に走らせ無事を確かめる。どこにも傷など負っていない。彼女は安堵して、深く息を吐いた。
　そして彼女はもう一つの声の主、泰麒の姿を捜す。しかし、どこにも彼の姿は無かった。でも、先ほどの声は――。訝りながら、周りを探そうとする。しかし彼女は先程からつい、驍宗の傍らに立つ見目麗しい獣に気を取られてしまうのだった。一体この優美な獣は何なのだろう――。
　くすくすと笑う泰麒の声がした。
「ただいま、李斎」
　その声は、眼前の美しい獣から発せられていた。
　麒麟、黒麒、転変……いくつかの言葉が彼女の頭の中で交錯し、やっと彼女は状況が飲み込めた。すなわち、泰麒が麒麟の姿に転変を果たし、驍宗を載せて帰還したのだということを理解したのだった。
　この後自分が何を言ったのか、李斎はよく覚えていない。泰麒が無事であることを確かめ、麒麟としての本性を取り戻したことを喜び、そのいきさつを勢い込んで尋ねたように思う。ただ、この時は歓喜のあまりすっかり興奮しており、何をどのように口にしたのか、さっぱり覚えていないのだ。
　思い出せるのは、この興奮が少しだけおさまった後からになる。
「やっと落ち着いたようだな」
　驍宗は微苦笑を浮かべてそう言い、それから彼女に命じた。
「ところで、冢宰と天官長を呼んできてもらいたい。――そうだな、花影も呼んでおこう」
　李斎は少々不思議に思った。冢宰をお呼びになるのはわかる。が、それと並んで天官長をお呼びになるのはどうしてだろう。それに、付け加えるように花影の名がでてくるのもわからない。
　彼女がこの三人を連れて戻って来たとき、更に不可解なことが起きた。驍宗はこの三人だけを部屋に招きいれ、李斎には席を外すように命じたのだった。彼女は彼の側にあるのが常だったから、その命に当惑した。
　とはいえ反駁する理由も見つからない。彼女はこの三人が部屋に入るのを見送った後、首をかしげながら所在なさげに園林に佇み、膨らみ始めた梅の蕾などを眺めていた。
　その日の空は、それまでの寒々しく冴えわたった青ではなく、わずかに霞がかった柔らかな色をしていた。そんな青空を背に、白梅の蕾が控えめながら確かに開こうとしていた様を、彼女は後々まで記憶に残している。
　驍宗の部屋から出てきた三人の表情は揃って明るかった。一癖も二癖もある正頼が掛け値なしの笑みをたたえ、花影も李斎に向かって心から嬉しそうににっこりと微笑む。国庫に負担の無いよう、その仕事を減らすことを仕事としていて常に不満げな天官長まで、このときばかりは意気揚々といった表情をしていた。
「李斎、主上がお呼びですよ」
　花影が弾むような声で李斎に声を掛けた。そして、三人の笑顔に背中を押されるように、李斎は驍宗の部屋に入ったのだった。