梅花

　手をつないだまま二人は立ち上がった。
「どうやら、私が性急だったようだな」
　と驍宗が言った。落ち着いてみれば、何やら可笑しさが彼の胸に湧いてくる。彼は続けた。
「李斎にしてはたまるまい。朝いつもどおり目が覚めて、いつもどおり仕事に来て見れば――」
　ここで彼は少しおどけた顔をして彼女の目を覗き込んだ。
「文州にいたはずの私と蒿里が帰ってきた。それだけでも驚くのに、蒿里は転変を果たし麒麟の姿となっていた。李斎は麒麟を目にするのは初めてか？」
「はい」
「そうか。さぞ吃驚しただろうな。これだけでも李斎にとっては大事件だ。その上、その興奮がおさまったと思ったら、王に呼び出され求婚された。しかも、この王は王后になれという――」
「…………」
　彼女はやや恨めしげに彼をみる。彼は笑いながら言った。
「これは大変だ。こうも次々と驚くようなことが降りかかっては、李斎が困惑するのも無理はあるまい」
　彼はそっと彼女の手を離した。彼女は慌てた顔を彼に向ける。一度は自分からほどこうとした手だが、彼の方から手を離されると急に不安になる。　
　――私は、貴方を拒んでいるわけではないのです。それどころか――。
　それどころか、貴方を心から愛しているのだ。そう彼女は彼に言いたかった。しかし、適当な言葉がみつからない。口を軽く開けて言葉を探しながら、彼女はその瞳で、彼に自分の切実な想いを訴える。
　彼は、彼女の想いを汲み取り、自分の方から言葉を出してやった。
「一つ確かめておく。そなたの心は私にあるか？」
「はい」
　彼女は力を込めて即答した。首を強く縦に振りながら。ただ、それに続く言葉が見つからない。上手い表現だとは思えないが……と自分でももどかしく思いながら、彼女はこう続けた。
「……あの……、私は主上に、臣下にあるまじき感情を持っております」
　李斎の大真面目な顔と堅苦しい言葉に、驍宗は噴出しそうになるのをこらえ、幸せを噛み締めながら答えた。
「ならばそれでいい。それで十分だ。私が性急だった。王后のことは、時間をやろう。李斎の心の整理がついたら、それから二人で考えることにしよう」
　彼女は安堵の息を吐き、彼に礼を取ると扉に向かった。彼と気持ちは繋がっているとさえ分れば、今度は一人になってゆっくり自分の心と向き合いたかった。が、李斎の歩くすぐ後ろに驍宗がついてくる。
「……？」
　彼は苦笑して言った。
「見送ろう」
　李斎は頬を染める。もうこの方にとって私は臣下ではないのだ。そう思い至ると彼女はなんだか照れくさい。
　彼女は火照る頬に冷気を当てたかった。それを期待して扉を開けようと手を伸ばしたとき、彼女は髪が軽く掻きあげられるのを感じた。驚く間もなく、首筋に熱い息がかかり、温かく柔らかいものがそこに押し当てられる。
「あ……」
　僅かに顔を反らせ、思わず洩れた声は随分艶かしく、自分のものではないように彼女は思った。
　彼女の首筋から唇を離した男は、呆然と彼を振り返る彼女を見て軽く笑った。
「これくらいは、許してくれるだろう？」
「え？　ええ、はい……」
　彼女は耳朶まで真っ赤にして俯く。彼の指が彼女の髪の先を弄んでいるのが目に入って、彼女の胸の動悸はより一層激しくなった。しどろもどろになりながら、彼女は彼に辞去の言葉を述べ、あわあわと扉を開けて外に歩き出した。
「李斎」
　数歩進んだところで、背後から彼の声が掛かった。
　振り向くと、彼は面白そうな顔をしながら彼女に言った。
「時間をやるから、もう少し言葉を探しておいてくれ」
「は？」
「『臣下にあるまじき感情』ではなく、もう少し気の利いた言葉が欲しいな。これではまるで奏上文でも聞かされているようだ」
「はい……」
　彼は顔に更に大きな笑みを刷き、彼女に軽く手を挙げて見せてから部屋に戻った。
　その扉が閉まるのを見届けてから、李斎は大きく嘆息した。やっと一日が終った。本当に長い一日が。まるで、激しい嵐の中を延々ともみくちゃにされた小船のような気分で、彼女は再び深く大きく息を吐いた。
　
　官邸に帰る前に、彼女は園林に寄って行こうと思った。そこで少し頭を冷やしたかった。いつの間にか日は傾き始めていたが、暮れるにはまだ時間がある。
　園林の白梅は、今朝彼女が眺めた時よりさらにほころび、まさに開こうとする寸前だった。彼女は立ち止まってその様を眺めていた。その女のすらりとした首筋には、その白梅と対をなすように、男の付けた跡が紅梅の花のように残っていた。