梅花

　一体どうしたというのだろう。床に崩れ落ちた李斎の姿を、驍宗は呆然と眺めていた。彼女の赤茶の髪が床に散らばっている。彼は、それを集めてやりたかったが、到底できる雰囲気ではなかった。
　彼の求愛自体を拒もうとしているわけではなさそうだった。愛を告げたとき、彼女の瞳には歓びの色が確かにさしていた。妻になって欲しいと言いながら、彼女を抱き取ろうとしたときも、彼女はそのまま彼に身をあずけようとしていたはずだ。それなのに――。
　王后、か――。そう、彼女の態度が一変したのはこの言葉がでた直後だった。何故なのだろう。彼は訝しく思う。彼の中では、彼女を愛していることと、妻に娶ること、その妻に王后の地位を与えることとは一直線に結びついていた。
　もう、何年も想い続けてきた。女が指先に力を込めるのに応え、彼女の手を強く握り返しながら、彼は彼女を想い続けてきた年月を思う。
　それでも彼が彼女に想いを打ち明けなかったのは、民への責任があるが故だった。だが、それも取り除かれた。泰麒は麒麟の姿を取り戻した。冢宰は胸を張って彼に請合った。
「大丈夫でございますとも。国も安定し、民が豊かになる道も整いました。今なら、主上の慶事を民も心から喜ぶことでしょう。朝を代表して、この私めが保証致しますよ」
　と。
　想いさえ通じれば、彼女を妻にするのは彼にとって当然のことだった。誰憚ることなく彼女と起居を共にしたいし、万が一にも自分を差し置いて彼女に近づく男などいてもらっては困るのだから。
　王の妻にもいろいろ位があるという知識は持っている。だが、彼には彼女しか妻に迎える気はない。この先も彼女ほど自分にとって大切な女は現れることはないと確信している。だから、最高位の王后に彼女を据える。これは彼にとっては自明のことだった。
　――しかし、李斎にとってはそうではないのだ――。
　彼女の真っ直ぐな謙虚さを勘案しておくべきだった。と、彼は悔いた。王后という華々しい地位を躊躇なく受け取るには彼女は慎ましやかな性分なのだ。大体、彼女は、武将として十分活躍していたときでさえ、自分の高名さに頓着せず、王師将軍の座を一度はこともなげに袖にした女なのだ。
　それに――。彼女が視線を床に落とすのに合わせて、彼も床の同じ辺りを見つめ、考える。自分の中では一直線だと思っていた、彼女への愛と王后位との間の繋がりにも、確かに幾分か齟齬があるのではないだろうか。
　彼女は自分に、王ではなく一人の男として愛していると言った。自分もそれを嬉しく思った。そう、それぞれ一人の男と女として結びついていたいと思っているのに、自分が差し出しているのは、王の后としての位だ。王后として王である自分を支えて欲しい。自分は彼女にそう要求している。これは確かにおかしい、と彼は胸の内で唸る。
　――私の性急な性分は改まっていないな――。
　自分では慎重に進めたつもりだった。彼女に愛を告白する前に、冢宰以下三人の高官を呼んで民意を確かめたのもその一つだ。しかし、肝心の彼女とどういう関係を結んでいくかについては殆ど何も考えないまま、ことを進めていたようだ。彼は小さなため息をつき、彼女の床に散らばる髪に目をやった。
　それどころか――。本音を言えば、彼は今日、彼女を官邸に帰さないつもりだった。今頃、この髪に指を絡めてその感触を楽しんでいるつもりだったのだが……。
　と、そう彼が考えているとき、彼の手から彼女の手が逃げ出そうとした。彼は咄嗟にその手を捉えた。その自分の手の力は、自分が思うよりも強かった。
　このまま――。彼は表情を固くしていたが、心の中には大きくうねるものがあった。このまま彼女を力まかせに引き寄せてしまいたい。無理やりにでも胸に掻き抱き、思うまま彼女の身体を貪りたい。彼はしばらく食い入るように、彼女の手を見つめ、それから彼女の顔を見た。
　彼女の顔は強張っていた。そこに先程彼女が彼に見せた甘さはなかった。
　――よそう。彼は大きく息を吐いて、内心の揺れをおさめた。男としての腕力を用いれば、王としての権を振りかざせば、今日の内に彼女を妻にすることはできるかもしれない。しかし、彼はそんな形で彼女に傍らに来て欲しいのではなかった。
　――私の欲しいのは、李斎の心だ――。
　彼は出来るだけ穏やかに見えるような微笑を顔に浮かべて見せた。そして、軽く彼女の手を上へ持ち上げ、立ち上がるように促した。