銀狼の瑕

　手負いの狼に遭ったことがある。
　あれは李斎がまだ生まれ育った村にいる頃、隣村に用事へ出掛けた帰りだ。「もう遅いから泊まっていけ」という先方の申し出を李斎は断っていた。夏の日暮れは遅いし、自分の俊足には自信があった。
　ちょうど峠を越えようとするところで、自分が土を蹴る以外の音に気がついた。李斎は立ち止まる。静まりかえった森の中に、その音だけが残る。その音はがさごそと藪の中を動いていた。
　――何だろう。
　李斎はその音に近付こうと青々とした茂みの中に分け入った。そのとたん、その音はピタリと止み、一瞬の沈黙の後、うぅーと獣の低く唸る声がした。
　――妖魔か熊か狼か。
　後に、次々と襲い掛かってくる妖魔と切り結ぶこととなった女将軍も、この頃は殆ど獣と対峙したことがなかった。せいぜい、村の男達とともに村に降りてきた熊を驚かせ、撃退したことがあるくらいだった。
　李斎は用心の為に持っていた短刀を取り出し、鞘から刀身を抜いて身構える。相手はただ唸るだけで、襲い掛かってもこないし逃げようともしない。
　――こちらから逃げてはならないと聞く。
　逃げれば追う。獣の中にはそのような性質のものもいる。そして足の速さで人は獣に敵わない。李斎は意を決して、短刀の柄を握りなおすと唸り声のする草叢へ一歩足を踏み入れた。
　そこにあの狼がいたのだ。地に這い蹲った格好で。
　もっと大きな獣がいるものと想像していた李斎は、視線を下方に落とすまでに隙を作ってしまうこととなった。にもかかわらず、その狼は李斎に襲い掛かってはこなかった。
　その狼は右の前肢に傷を負っていた。関節の上の肉がごっそりと食いちぎられており、ほとんど皮一枚で繋がっているだけだった。
　――ああ。
　李斎は落としていた腰を伸ばした。緊張を解いてそこに立ち、地に伏せたままのその狼の様子を眺める。その狼の上肢の辺りには血だまりが出来ていた。まだ傷を負ったばかりなのだろう。
　――可哀想に。
　その右前肢はもう使い物にならないだろう。この獣はこの先三本足で生きていかなければならないが……。李斎は短剣を胸にしまいながら思った。三本足の獣など、厳しい自然の中でそう長くは生きられまい。
　――せめて止血だけでもしてやろう。
　李斎は村で飼われていた犬の世話もよくしてやった。自分は動物に好かれる性質だと思っていた。
「痛いだろう？　手当てをしてやろう」
　李斎は狼にそう声を掛けると、自分の荷物の中に手当てに使えそうなものが何かないか頭で考えながら、その狼に近付いた。
　しかし。
　ガルルゥーー。
　狼は低く唸って李斎を威嚇する。李斎が思わず半歩ほど後退ったのを見て、その狼はふらりとしながらも三本の足で立ち上がった。
「あ……」
　思わず声を上げた李斎を、その狼は苛烈な眼で一睨みしただけで、すぐにぷいっと身を返した。李斎のいる方とは反対方向へ、傲然と首を上げて歩き出す。その歩みは、明らかに慣れていない動作で哀れに見えた。けれどもその狼は自らの進む方向を真っ直ぐ見つめて歩み続けるだけで、李斎のことなど一顧だにしない。
　一歩ごとに上下にひょこひょこと動く背中や、ぽたぽたと滴り落ちてその数を増やす血痕を痛ましく思いながらも、李斎はもう声を掛ける気にはなれなかった。孤高を貫いて己の道を行く狼の姿にはどこか近寄りがたい威厳が備わっており、その狼が見せ付ける峻烈な意志の前では、李斎の掛けた哀れみの方こそ随分と安っぽくみすぼらしいもののように思われた。
　このような気高さというものを知らず安直な憐憫に浸る、そんな自分という人間はなんと器が小さいのだろう。李斎は自分を恥じた。
　ただその時、悲しみや寂しさとしか呼びよう様のない感情もまた湧いたことを、彼女は今でもはっきりと覚えている。
　――でも、あの時、自分は何が悲しく何が寂しかったのだろう。
　そして、どうしてこの光景は、あれから長い時間が経っても心の中に棘のように刺さって抜けず、時折自分の脳裏に甦るのだろう。あの重苦しい、孤独な気持ちを鮮やかに伴って。