銀狼の瑕

　李斎の視野に突然銀髪の塊が飛び込んできた。と同時に胸にトンという軽い衝撃を感じる。
「主上……？」
　驍宗が李斎の胸に頭を預けていた。そして彼女の膝に大きな手を乗せる。そして、からかうような目で李斎を見上げて言った。
「戴史乍書の方が延史邦書よりも絶対にずっと面白い」
「はあ……」
　驍宗は李斎の乳房に頬を摺り寄せるようにして頭の位置を定め、そして笑いながらその先を続けた。
「延王ご自身もなかなか面白い方だが……。とはいえ妓楼通いがお好きだなどととうてい史書には載せられまい。それに引き換え私は素晴らしい女性――おそらく李斎単独でも史書に名を残すことだろう――を妻に娶ったのだから」
「…………」
「乍王朝の王は救国の女英雄に恋をし、そしてその女を得て后とした。これは必ず史書に載る。恋物語のある方が読み手には面白いものだろう？」
　楽しげにそう言ったきり驍宗は目を瞑ってしまった。李斎はただ絶句するばかりだ。そして呆然としている自分に気付いた頃には、驍宗はすっかり眠りに落ちてしまったようだった。すっかり寝入ってしまっているのは、乳房にのしかかる男の頭の重みでわかる。李斎は彼を起こさぬようその頭を左腕で軽く抱きしめながら、そっと身を横たえた。

「狼というのは群れで暮らすんだよ」
　ふと李斎は思い出した。そうだ、確か州師に入って何年か経ったころ同僚が教えてくれたことがある。その男は猟師あがりで獣の習性に詳しかった。
「そうなのか？　だけど、『一匹狼』という言葉があるじゃないか」
　李斎の反論にその男は笑って答えた。
「わざわざそんな言葉があるってことは、それが普通じゃないからだよ。狼というのは群れで暮らすんだ。李斎が故郷で見た、その傷を負った狼だってたぶん伴侶の許に戻ったんだろう。わかったかい？　どんなに強い獣だって群れるものなんだ。だからさ、李斎。俺たちもさあ……」
　そういえばあの男は、過去に李斎の恋人と呼ばれた男の一人だった。その後の男の話はさっぱり覚えていない。そちらの方はどうでもいいが、どうして自分は「狼は群れる」という事実をすっかり忘れてしまい、あの故郷でみた孤高の狼ばかり思い出していたのだろう？
　自分は自分の言葉に囚われていたのかもしれない。李斎はそんなことを思った。蓬山で泰麒に驍宗のことを狼に例えてみせた時、自分の頭にあったのは勿論群れて暮らす獣ではなく、あの故郷の狼のほうだっただろう。以来、自分もまた彼を一匹狼のようだと思いながら傍にいたのだ。同輩のように遇された時も、臣下として仕えていた時も、そして恋をしていた時も、妻となった後も。
　だけどそれは半分以上、貴方がお悪い。李斎は、自分の胸の前で規則正しい寝息を立てている夫を軽く睨んだ。この方ときたらずっと一匹狼さながらでいらっしゃったのだから。それでこの方を見ている内に、狼が群れるということをしばらく忘れてしまっていたのだ。
　李斎が故郷の村でみたあの手負いの狼。あの狼は……。
　――あの狼はあの後、きっと群れの中に戻ったのだ――。
　李斎は顔を近づけて自分の生涯の伴侶となった男の寝顔をじいっと見つめる。今度は、男も寝たふりをして彼女の様子を伺うなどとそんな意地悪はしていないようだ。李斎はそれを確かめると安心し、そして顔中が溶けてしまいそうなほど大きな大きな笑みを浮かべて、そうっと男の頭を自分の乳房に抱きしめた。
　男の寝顔はまるで仔犬のようで、彼女はただただ幸せだった。