銀狼の瑕

　牀榻の中、李斎は覗き込むようにして驍宗の寝顔を見つめていた。相変わらず彼はぐっすり眠っているようだ。こうして寝入っているのを見れば、端正な顔立ちはむしろ温和にさえ見える。もうこのお方は獣ではないのだ。
　――飼い慣らされた犬が主人の横で眠るような。
　主人？　とんでもないことを、と李斎は苦笑いを浮かべる。けれども正頼などが言う「主上はお后を迎えられて本当に穏やかに変わられましたなあ」などの言葉が耳に快く甦ってくる。そんな風に考えるのは不遜と分かっていても、李斎はまんざらでもない。少なくともこういう風に無防備な寝顔を見ることができるのは、妻である自分だけなのだし。李斎は暫し甘い優越感に浸る。

　突然。驍宗の瞼が開き、赤い瞳が李斎を捉えた。李斎は思わず仰け反ってしまう。その様に驍宗はくすくすと笑った。
「随分長い間私の寝顔を見ていたようだな」
「…………」
　彼が眼を覚ましていたとは思いもよらないことで、李斎は言葉が見つからない。
「あ、あの……」
「何を考えていた？」
「いえ、特に……。でも、そういえば今日の朝議ではすこし波乱があったとお聞きしたものですから。台輔とその……」
「延の話か」
　そう言いながら驍宗も身を起こす。そして再び李斎と視線が合った時、李斎は彼の双眸にあの、彼特有の苛烈な光が宿っているのを見た。
「もし私に五百年の寿命があれば、乍王朝は必ず延王の王朝を凌いでみせる」
　李斎は小さく口を開けたが、何と返事してよいかわからなかった。
　驍宗は一度ゆっくりと瞼を閉じ、燃えるような赤い瞳を瞑って静かに言った。
「私は既に大きな過ちを犯している。この瑕は永遠に消えることはない」
　李斎は、彼の心に手を差し伸べるような気持ちで慰めようとした。
「あれは阿選が悪いのです。主上は正しくいらっしゃった……」
「学問ではないから、正誤の問題ではない」
　驍宗は再び眼を開けて李斎を一瞥した後、短く言い切った。李斎はその語気の厳しさに、自分の頬が打たれたような気がした。先ほどまでの、妻として彼の寝顔を見ていた時の甘く満ち足りた気分が急速に萎えていく。
　驍宗は低い声で厳かに続けた。
「ただし、人は皆失敗を犯すもの」
　さようでございます、ですからどうかお一人で気に病まれますな。李斎はそう声を掛けたかった。けれど驍宗に、こんな陳腐な慰めなど受け付ける風は全く無い。臣下の立場に戻ったような気持ちで李斎は驍宗の次の言葉を待った。
「人が史書を紐解く時、そこに何を読もうとするのだろうな」
　李斎は首を傾げるだけで何も言わない。問いの答えも分からないばかりでなく、彼のことも何も分かっていなかったような気までしてくる。彼と自分との間に今ぱっくりと開いた距離の遠さに、胸の中が冷えていくのを感じながら、李斎はただ聞いている。驍宗はまた彼女を見、説き始めた。
「人が史書を読むとき、その者はそこに王の人生を見るだろう」
　忍び込む月の光を跳ね返す程、彼の眼は炯々と光っていた。
「そして失敗のない王の物語よりも、失敗してもそこから立て直し、長く王朝を守った王の物語の方が人々に必要なのだと私は思っている。人は失敗せざるを得ない生き物なのだから」
　李斎は息を吐き出した。感嘆と寂寥との入り混じった吐息だった。
「いわば私の人生は私のものであってもはや私のものでない。私は自分の人生を以って、後世に示さなければならない。既に失敗を犯していても、命ある限りその後何を為し得るのかが最も重要であることを」
　驍宗は李斎に向けていた視線を、牀榻の外、窓の向こうへと伸ばした。
「そうでなければ、私の失敗のために命を落とした者達に対して顔向けができない」
　その横顔には、近年殆ど見かけなくなった峻厳なものがあった。彼は暫くそうしていたが、ただ畏まっている李斎の方をみると、僅かに苦く笑って見せた。
「他人の意見を聞きながら物事を決めていくことは私の不得手とするところ。だが、私の得手不得手などこの際瑣末事に過ぎない。私は大きな失敗を犯し、それ故千年の王朝を築いてその罪を償わなければならないのだから」

　李斎には彼に掛ける言葉が見つからないでいた。どんな言葉であっても、そこにあるのは自分の安っぽい憐憫でしかないような気がした。
　――この方には慰めなど必要ないのだ。
　この方は器が違う。歴史の流れの中に独りで立ち向かい、過去の失敗を真正面から受け止め、戴一国をご自身の力で未来へ押し出そうとしている。確かに延王のように稀代の名君と呼ばれることは今後ないかもしれない。けれども失敗を経てもなお雄々しく甦った王の存在は、後々の世まで人々を惹き付け、そして励ましていくことだろう。
　――やはりこの方は狼でいらっしゃるのだ。
　李斎の胸に、娘の頃出会ったあの手負いの狼の姿が再び浮かび上がる。手当てをしてやろう、という李斎に一瞥をくれただけでさっさと立ち去って行った孤高の獣。その背を見送りながら、安直な同情を寄せた自分を恥じつつ、それと同時に覚えた寂しさと悲しさ。
　今ならその寂しさと悲しさが何なのか分かるような気がする。李斎は思った。泰麒は「相手の心の中に自分の居場所がない」と表現していた。慰める、というのは相手の為にだけするものではないのかもしれない。慰めるこの自分を受け止めて欲しい、そんな願いも慰める側にあるのだ。
　だが、彼女の夫は他人の慰めなど要らない人間だ。そして彼はこの国を率いる王なのだ。誰に頼らずとも独りで輝くことの出来る王。その精神がこれほど強靭であることは、喜ばしいことのはずだ。ましてや自分は王后の立場にあるのに。今の自分は心の底から彼の強さを讃えなければならないはずなのに。それなのに……。
　自らの心を叱りつけていても、慰める側の者の甘えを扱いかねて、彼女の首は次第に項垂れていく。そうして李斎は自分の膝のあたりを見るともなしに眺めていた。