銀狼の瑕

　その日の午後。泰麒から朝議の様子を聞かされていた李斎も、このくだりで思わず左手で口を覆った。そして驚きと心配の入り混じった目で泰麒を見つめる。
「大丈夫。大丈夫だったんですよ、李斎」
　朝議が終わってすぐ、李斎に話したいことがあるから、とやってきた泰麒は笑って見せた。

　誰も予想しなかった泰麒の反駁に、朝堂にいる者全て身じろぎ一つせず息を詰めて驍宗の反応を待った。一拍おいて驍宗が吐息を洩らした。その表情は少し楽しげな苦笑とでもいったところか。
「わかった。この件には論じるべきところが多いようだ。この件は……」
　驍宗は悪戯めいた目で泰麒を見やった。
「吟味しておこう」
　泰麒は一瞬ぽかんとした後、ぱあっと大きな笑みを浮かべた。
「そうだな。期限はおよそ一年。一年くらいなら貧民対策の財源も何とかなるだろう。その間にこの件は吟味しておく」
　ではこれにて。驍宗は散会を宣して朝堂から立ち去って行った。
　残った者は呆気に取られた面持ちだ。気の抜けた表情で正頼が言う。
「吟味、ですか。あの驍宗様が私どもの意見を聞き入れてくださるようになったとは……」
「聞き入れるかどうかはわかんないよ。話が途中でズレてたし。でも、いろんな意見を聞いてから考えようっていう風にはお考えを変えられたみたいだね。ちょっと意外だった」
　と琅燦。花影も額の汗を手巾で拭いながら言う。
「本当に主上はお変わりになられた。以前でしたら即座に結論を――誰も文句の言いようのない結論を下しておしまいだったでしょうに」

「皆の言うとおりですね」
　李斎もまた、いつのまにか力を入れていた肩を落として、安堵した様子で言った。
「主上は結論を急ぐ癖を改めておいででいらっしゃる」
「それだけじゃないんですよ」
　と泰麒は微笑む。
「『吟味する』なんて仰ったのが可笑しくて。あ、勿論いい意味でですよ。分かりますか？」
　李斎は怪訝そうな顔をしながら首を横に振る。
「驍宗様は延王の真似をなさったんです」
「真似、ですか？」
「ええ。中島さん――景王から伺った話なんですけど。景王は初勅に随分迷っておられたでしょう？　その時延王がこう助言されたんだそうですよ。『迷っている時は、吟味している、と言え』って。だから驍宗様は延王さまのやり方に従われたんです。しかもこれは、蓬莱から来たばかりで王様の初心者だった景王に向けての助言なんですよ。それを真似てくださったんです」
「まあ……」
　李斎の顔も綻ぶ。なるほど。主上は、決して延王に対抗しているばかりではないことを、このようなちょっとした仕掛けとともにお示しになったのだ。

「僕、嬉しくて……」
　その泰麒の声は震えていた。それに気付いて、李斎は眼を見開いて彼の顔を見た。彼の両の眼から涙が次々に零れている。
「ごめんなさい。泣くつもりなんて無かったんですけど……」
　泰麒本人も自分で自分が意外な様子で、慌てて袖で目の辺りを擦ろうとする。李斎は急いで自分の手巾を彼に手渡した。そして立ち上がり、泰麒の背後に回って肩に手を置いた。
「僕……ずっと驍宗様が好きでした」
　鼻を啜りながら泰麒は話し続ける。
「強くて聡明で覇気に満ちていらして――。そんな驍宗様に僕はすごく惹かれていて……。これは僕が麒麟だから特別なのかもしれないですけど」
「いいえ。皆もそうですよ。主上は輝くほどの傑物でいらっしゃるのですから」
「ええ。傑物でいらっしゃる。そしてその輝きに僕は魅せられていくのに、逆にあの方にとって僕は特別必要ではないんじゃないか、と思って悲しかった」
「……台輔」
「驍宗様は何でもご自分一人で正しい答を見つけて実行してしまう。そう、ご自分一人で。驍宗様を知れば知るほど魅せられていくのに、あの方の心の中に僕は存在するのか、不安で……寂しくて悲しかった」
　でも。泰麒は、顔を寄せていた李斎に、濡れた瞳のまま微笑んだ。
「でも、僕は今日あの方の前に思い切って飛び出してみました。随分挑発的な物言いでしたけど……。でも驍宗様はちゃんと応えて下さいました。ちゃんと僕を見て下さっていました……」
　再び感極まったようで、泰麒はしばらく鳴き咽んでいた。李斎はその背中をそっと撫でる。
「李斎」
　嗚咽の中から泰麒が言った。
「李斎は蓬山で言っていたでしょう？　驍宗様は犬ではなくて狼だ、って」
　確かに李斎は驍宗を評してそう言ったことがある。「犬だと思って気安くしていたら何かのおりに狼だったと気が付いてヒヤリとする」と。
「驍宗様は、以前は確かに狼でいらっしゃいました。でも今は……今でも大きくて強いけれど、ちゃんと守るべき者の方を向いていらっしゃる。そう、今の驍宗様は番犬だと思うんです。戴を守る、とても強くて賢い勇敢な番犬だ、って」
　ここで泰麒の目から新たに涙が溢れ出る。
「僕は――僕達、戴の民は――こんなに立派な番犬に守られているんですね……」
「そうでございますとも」
　麒麟の王への思慕は余人に測り知れないものがある。けれど、泰麒が今日驍宗に反抗し、それを受け止めて貰ったことは、泰麒にとって非常に大きな出来事だったのだろうということは李斎にもわかる。台輔はまた一つ大人になられたのだ。
「主上に加えて、王を諌めることのできる台輔もおられるのですから――我々戴の民は本当に安心というものです」
　誉められることがあっても泰麒はいつも自信なさげに否定する。けれど今回は素直に李斎の讃辞を受け取った。
「うん」
　泰麒の少し得意そうな顔が、李斎にはとても嬉しかった。