初恋の君

「そんなに意外だっただろうか？」
「ええ。李斎が農家の生まれとは思っておりませんでした」
　花影は余程意外だったらしい。普段李斎のことは「王后」と呼んでいるのが、つい昔のように「李斎」に戻ってしまっている。
「李斎……いえ、王后が鍬をふるっているところは想像つかなくて……」
「家の手伝いだってよくしたものだ。もっとも武人の真似事の方が熱心だったのは確かだけど」
「ああ、悪戯っ子を懲らしめていたという」
「そうそう、そいつは地主の息子だったんだが……」
　李斎は楽しそうに子供の頃を話し始めた。

　くすん、くすんと少女が泣きながら畦道を歩いてくる。抜けるように白い肌、パッチリと開いた大きな目、珊瑚色をした唇。人形のように可愛らしい女の子だった。それがしゃくり上げながら誰かを呼んでいる。
「り…さい、李斎」
「白蘭かっ。どうしたっ」
　田圃の中から十五、六の少女が鍬を放り出して飛び出てきた。日によく焼けた肌、凛々しい顔立ち、健康的にすらりと伸びた長い手足、そして赤茶色をした長い髪。
　彼女はかがみこむと、泣いている少女の涙を拭ってやる。少女は壊れた玩具を差し出した。そして、ひっくひっくと言いながら訴える。
「李斎。あのね。これで遊んでいたら英翔がやってきて、こんな子供臭いものみっともないって言って地面に叩きつけてしまったの」
「英翔……、またあいつかっ」
　李斎はばっと立ち上がる。そして、少女の肩に両手を置いて言った。
「待ってろ。今すぐ行ってとっちめてやるから」
　ジャリッ。李斎は、土を蹴って猛烈な勢いで駆け出していった。

　地主の息子、英翔はいつも子分達を連れている。その一人が自分達の方に向かってくる土煙に気が付いた。
「お、おい。李斎だっ。李斎が来たぞっ」
　子分たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。が、英翔にはこの辺りの悪餓鬼の頭目としての意地というものがあった。彼は逃げずに、両の拳を握って李斎を待ち構えた。もっとも、いささか腰が引けているのだが。
「英翔っ」
　李斎が間近まで走り寄ってきた。その右の拳はぐっと握られ、肘を後ろに引いている。すでに英翔に殴りかかってくる体勢だ。英翔は目を瞑って拳を前へ突き出す。しかし、如何せんそれは早すぎた。李斎は伸びきった英翔の腕をやすやすかいくぐるとと、英翔の腹に重たい一撃を浴びせる。
「うっ」
　呻きながらよろける英翔。李斎はぱっとしゃがみこむと長い足で、英翔の足を払った。もんどりうった英翔がぶつけた頭に手をやるころには、もう李斎は彼に馬乗りになっていた。
「英翔っ。お前はどうして女の子達に悪戯ばかりするんだっ。特に白蘭！　大人しいからといって調子に乗るな」
「う、うるせえっ」
　英翔は李斎の目を見ず、そっぽを向いて答える。
「英翔っ」
　李斎は馬乗りになったまま英翔の襟首をひっつかんで、自分の方に引き寄せた。
「く、苦しい……。り、李斎、や、やめ……」
　英翔が顔を歪めている間に、遠くから若い女の声がする。
「李斎ーっ。助けてぇ。隣の村の男達が水争いで言いがかりをつけに来たのーっ。すぐに来てぇーっ」
「なあにぃーっ。よしっ、すぐ行くっ」
　李斎は呼ばれた方に顔を上げると、大声で怒鳴った。そして英翔の襟首を掴んだまま揺り動かして念を押す。
「いいか。また悪戯なんかしたら今度こそ顔を殴ってやるからな。覚えておけ」
　そういい捨てると、再び土を蹴って呼ばれた方へと駆け出して行った。

　ぺっぺっと李斎が引っ掛けた砂利を吐き出しながら、英翔が起き上がった。わらわらと子分たちが寄ってくる。
「英翔、大丈夫か」
「大丈……痛っ。あいつ思い切り腹を殴りやがった……いててて……」
「あいつ、腕っ節はここら辺りで一番いいからなあ」
「なんであんなに強ぇんだろうなぁ」
「でもさあ、英翔、今回の白蘭の件はお前も悪いんじゃないか。玩具壊してやるなよ、楽しそうに遊んでたんだからさあ」
「うるさい。いつまでも子供っぽい白蘭が悪いんだ」
英翔は顔を真っ赤に染めてそう吐き捨て、家に帰ろうとし始めた。