初恋の君

「まあ本当に、りさ……いえ王后は喧嘩にお強かったのですね。そのように悪い男の子をやっつけておしまいになって」
　花影がそういうのに、ふふっと李斎は笑ってますます楽しそうに続けた。
「そう悪い奴じゃなかったんだ、英翔は。あれから程なくして私は州軍に入るために村を離れたんだが、英翔の奴、それから白蘭に悪戯をすることはなくなったらしい」
「あら、もう懲らしめる者もいないのに？」
　李斎はくすくす笑う。
「それがな。可笑しいんだ。悪戯をやめたどころかその二、三年後には何と白蘭に求婚したんだぞ」
「まあ」
「あれだ。好きな女の子にどうしていいか分らないからちょっかいを出す。悪餓鬼の幼い恋心ってやつだったんだ」
　李斎は苦笑する。
「もしかしたら、私はお邪魔虫だったのかも知れないな」
「まあ、そんな」
　李斎は肩を竦めて続けた。
「英翔にとってだけじゃない。私はどうも村の男連中全員にとって邪魔者だったようなんだ」

　英翔が家に帰ろうとする背中に、英翔の子分の一人が声を掛けた。
「でもさ、英翔。もう少ししたらあいつも村からいなくなるぜ」
「あいつって……李斎のことか？」
「そうさ、爺ちゃんたち大人が集まって、李斎を村から追い出す方法を考えているところなんだ」
　この少年の祖父は村の閭胥だった。
「追い出す？　なんでだ？　李斎が何か悪いことをしたのか？」
　英翔が李斎に殴られた腹をさすりながら訊ねる。
「格好よすぎるんだよ。李斎は」
　と村の里宰が父親の少年が言う。
「だからって、なんで李斎が村を追い出されなければなんないんだよ？」
　英翔の問いに、年頃の兄を持つ少年が答える。
「俺の兄貴が好きだった隣村の娘に求婚したらさ、李斎くらい強くて美しい男じゃなきゃ嫌だっていって振られちまったんだよ」
「そりゃ、お前の兄貴の問題だ」
「それがなあ、英翔。こいつの兄貴だけじゃないんだよ。こんな話がそこかしこにある。この辺りの女達は李斎に夢中だろ」
「強ぇからか」
「顔だっていい」
「まあ美人だな。ただし、じっと大人しくしてればの話だ」
「いや、美人で勇ましいってのが、女達にはたまらんそうだ」
「………………」
「ともかくここらの女達は李斎のせいで、その辺の男どもに興味が無い。これじゃ村の男どもには一生嫁がこない。それで大人達もなんとかしなきゃってみんなで集まって話し合っているんだよ」
「別に李斎のせいじゃないだろ」
「せいじゃないかもしれないけどさ、困ってるのは事実なんだよ」

「困っているのじゃよ」
　昼間閭胥に呼び出されて告げられた言葉に、李斎の両親は頭を抱えて悩んでいた。娘は今夜も、一日元気に村中の揉め事を腕ずくで解決した疲れでぐっすりと熟睡している。李斎の両親はその娘の寝顔を見ながらため息をついた。
「それで皆で話し合ったのじゃがな。どうじゃ、李斎を軍に入れてみるというのは」
　閭胥はそう提案した。普通ならそんな案など一蹴するところだ。李斎はこの夫婦の一人娘だった。どこの親が可愛い一人娘を軍に入れたりなどするものか。そう憤る気持ちもこの夫婦にある。が、しかし――。
「閭胥の仰るのも一理あるのではないだろうか。李斎が少々元気が良すぎるのはもうこの辺で知らぬ者はいないのだし……」
「そんな、あなた……」
　李斎の母親の咎める声を制して、父親が続ける。
「私達だっていつまでも生きていて李斎の面倒を見てやれるわけではない。李斎の将来を考えてやらなければ……」
　娘の将来。それは今日閭胥に言われるまでもなく常々この夫婦が気を揉んでいるところだった。
　この娘の腕っぷしの強さは有名だった。そして、この元気な娘は、その分じっと机に向かって書物を読むことが苦手であることも広く知られていた。
「今更、商人や役人などの机仕事に就けるわけにはいくまい。また、そのような家に嫁ぐというわけにもいかんだろう。どっちにしても受け入れてくれるところがあるとも思えんし……」
「そんな……。でも李斎はとても優しい娘ですよ」
　母親に言わせれば、優しい、それも優しすぎる娘だからこそ書物が苦手になったのだということになる。李斎は幼少時、あまりにも感受性の豊かな少女だった。子供向けの本を読み聞かせてやると、お話に登場する人物に悉く感情移入してしまう子供だったのだ。
「あの子はとても涙もろくて……。だから……」
　だから母親は小さな李斎に本を読み聞かせるのを止めてしまった。あまり刺激をあたえて要らぬ涙を流させるのはよろしくないのではないかと思ったのである。それが長じて書物を読む習慣が身につかないままになっているが、今だっていつも弱い者の味方になってやる心根の優しい子だ。母親はそんな娘の長所がよくわかっていた。だから、まるで娘を厄介払いするような閭胥の言が悔しかった。
「このままここで暮らしていけばいいではありませんか」
「それでは先が見えている」
　父親が渋い顔で答えた。ここでこのまま暮らしていっても、今のままだ。大人になっても、余所の家の夫婦喧嘩を腕で仲裁したり、隣村との争いに勇んで出かけて行ったりするのは目に見えている。
　今はまだいい。所詮は子供の喧嘩の延長だ。しかし、大人になったら。とんでもない逆恨みをかってしまったら。そして街のやくざ者に追われるような羽目にでもなったりしてしまったら。そんな私闘で身を危険にさらすくらいなら――。
「いっそ規律正しい正規の軍に入れた方が李斎の身のためではないだろうか」
「………………」
　父親の言葉に母親はしばらく俯いていたが、やがて自分に言い聞かせるように呟いた。
「軍に、軍に入れば李斎より強い人がいっぱいいるものね。きっと誰か、誰かいい人がこの娘を幸せに――、いえ、軍人だけじゃなくて州城には優秀な人もいっぱいいるもの。別に李斎より強くなくても構わない。李斎の優しさを分ってくれる人がきっといるはずだわ」
　両親はその後も夜を徹していろいろな話をした。時折父親は押し黙り、母親は涙ぐんだ。けれども、二人は翌朝何事もなかったような顔をして、ごくさりげなく李斎に切り出した。
「李斎。お前、軍に入ってみるのはどうだ？」
「軍？」
　両親の唐突な問いかけに、李斎は一瞬だけ当惑した表情を浮かべたが、すぐ大きな笑みを浮かべて言った。
「それはいい。きっと私は向いていると思います。行きます。父さん、母さん」
　両親は胸中の思いをこらえ、できるだけ穏やかな笑みをつくって頷いた。村の大人達の思惑も、自分たちの心配も娘には聞かせたくなかった。
　複雑な顔をする大人たち、胸をなでおろす悪童ども、そしてけろりと身辺整理をする李斎をよそに、悲しみを露にしていたのは村の娘達だった。彼女達は李斎がこの村を去ることを心から悲しんだ。そして李斎の出立当日には村の外れまで総出で見送ってくれた。
「李斎が村を出て行くなんて……」
　白蘭がべそをかきながら李斎に言う。
「私達……寂しいわ……」
「私達、李斎がいてくれてどれだけ頼もしかったかわからないのに……」
　他の娘達も口々に別れを惜しんだ。そしてお菓子だの新しく仕立てた服だの小物入れだのを李斎に贈ったのだった。

　村を少し離れたところで、李斎が村の娘達からの贈り物で膨らんだ荷を纏めなおしていると、背に声が掛かった。
「おい、李斎」
「なんだ英翔か。こんな村はずれまで何の用だ？　いいか、私は村を離れるが、お前、もう悪さをするなよ」
「しない。……それからな」
　英翔は李斎の正面に立ちはだかり、まっすぐ李斎を指差して言った。
「お前はいい奴だ。いい奴なんだからな」
　それだけ言うと英翔はばっと村の方へ駆け出して行ってしまった。
「……？　何だあいつ？」
　李斎は再び荷を背負うと、州城への道を歩き始めた。