初恋の君

「なるほど。村の男達の嫉妬で、お前は軍に入ったというわけか」
「嫉妬……というほど大げさなものでは……」
　李斎は夫の言葉に苦笑した。夕食が終わるとこの夫婦はその日一日の出来事を話しあう。今夜は、李斎が昼間花影にした昔話を驍宗に聞かせていたのだった。
「嫉妬、だろう。それも村の男達にとってはなかなか切実な」
　驍宗がくつくつと笑った。そしてしばらくしてから李斎に訊ねた。
「だが、それにしてもそういう大人たちの事情をどうして李斎が知るようになったのだ？」
「ああ、それは大人になって英翔から聞いたのです」
「ほう？　大人になってから英翔という男に会ったのか？」
　驍宗は李斎の昔語りに男の名が出る度に、かすかに不機嫌になる。李斎は少々呆れながら説明を加えた。
「英翔が白蘭と結婚して子供も出来た頃ですよ。私のほうも階級が上がって……、そう、あれは初めて飛燕を連れて故郷に戻った時の話です」

　州軍に入っても李斎はできるだけ両親の元に帰って来ていた。ただし、州城からは徒歩だったから、休暇の一日目は夜になってから到着し休暇の最終日は早朝に村を出た。そして李斎の家は村はずれだったから、こんな風に慌しく帰省するなかでは他の村人と顔を合わせる機会がほとんどなかったのだった。
　少し前に飛燕を手に入れ、やっと外に連れ出せるまでに調教も済み、李斎は軍に入ってから初めて、昼中の故郷の村に降り立つことができた。
「李斎、李斎じゃないかっ」
　飛燕を連れて村の中に入ると、恰幅の良い男が声を掛けてきた。白髪が何本か目立つ中年男だった。
　誰だろう――李斎はじっと男を見つめた。相手は李斎をからかいたいらしく、名乗らない。しばらくたってからやっと、李斎はすっかり分別臭くなった男の顔にかつての悪餓鬼の顔を見出した。
「英翔か！　随分久しぶりだな。いや雰囲気が全然違うから分らなかった。すまない」
「李斎の方は全く変わらねぇな。昇仙したら歳をとらないって本当だったんだな。いやあ若い頃からの美人のままだ。ま、もっともじっとしていればの話だけどさ」
「じっとしているどころか動き回るのが仕事なんだがな」
　李斎は英翔に肩を竦めてみせた。
「軍で出世してるんだって？　それ天馬か？　自分の騎獣を持てるようになったんだな」
「ああ」
　李斎は飛燕の方を振り向き、座っているよう命令した。飛燕はそのままおとなしく座る。
「見事なもんだ。ちゃんと主の言うことを聞く」
「まだまだなんだ」
　と李斎は英翔に説明する。
「本当の騎獣の乗り手というものは、もっと騎獣と心が通じあっているものなんだ。飛燕は確かに私の指示は聞くが……。まだ心が通じる域にまでは達していないな」
「大変だな。武人というのも」
「そっちはどうだ。子供が生まれたと聞いている」
「ああ、もう三人目だ。李斎さえよかったら見て行ってくれよ。嫁さんも喜ぶ」
「白蘭が嫁さん、か」
　茶化すような口調で李斎が言うと、英翔は頭を掻きながらそっぽを向いてしまった。

「李斎！」
　白蘭は歓声をあげた。
「白蘭」
　白蘭の方も子供のころから変わってしまっていた。愛くるしい瞳はそのままだが目尻に小皺がより、華奢だった手足には肉がついて全体に丸い体つきになっている。背中に赤子を背負い、二人の子供が纏わりつくそのさまは、誰かの庇護が必要な少女ではなく、三人の子を抱えて家を切り盛りするたくましい主婦そのものだった。
「なんだかすっかりお母さんって感じだな」
　李斎は、母親の着物の裾を掴んだまま李斎を不審げに見上げている兄と妹の頭を撫でてやった。こちらの方が李斎の知っている英翔と白蘭に近いような気がした。
「待ってて、今みんなを呼んで来る。きっと大喜びするわ。あ、そうそう、お昼ごはんはまだ？」
　まだだ、と李斎が答えると、白蘭は大急ぎで李斎のために昼食の支度を整え、外へ駆け出していった。
「お前の方はどうなんだ？」
「は？　何がだ？」
　李斎が昼食を有り難く頂いていると英翔が尋ねてきた。
「いい人いるんだろ？　婚姻はまだなのか？　俺ちょっと前に州城の近くまで用事で行ったんだ。そこで見たんだぜ。お前がいい男と歩いていたのを。手を繋いでたところだってちゃあんと見たんだ」
　英翔の目に邪気は無く、李斎の幸せを素直に喜んでいる風だった。
「あ……。ええと。それがいつくらい前の話かわからないが……それはもう昔のことで……。今、私には特に決まった人はいない」
「え……？　あ、ああ。そうか……すまん」
　英翔は悪いことを尋ねてしまったと心底後悔しているようだった。
「でも……何だ、李斎はそんだけ美人なんだから、すぐ別の男ができるさ」
「じっと大人しくしてればそうかもな」
　李斎は肩を竦めて見せて、この話題を笑い話に終らせようとした。が、英翔は大真面目な顔で力を込めて言った。
「いや。お前はいい奴だ。いい奴なんだからな。きっとお前のことを好きになってくれる男が現れるって。だから気を落とさずに待ってるんだぞ」
　李斎はお茶をすすった。州軍に入ってから何人もの男性が李斎に交際を申し込み、李斎も特に断る理由がなければ応じてきた。ただ、今まで長続きした例はない。そして次期将軍にも目されている今の自分に気安く言い寄ってくる男などもう現れないであろうと李斎は思っていた。李斎はそういったことについて別段何とも思ってはいないのだが、それを英翔に今ここでいちいち説明する気になれなかった。
「ありがとう、英翔。そうだといいんだがな」
　そして再び李斎はお茶をすすった。

　嬌声の入り混じった姦しい音が英翔の家の戸口に近づいてきた。ガラっと扉が開く。きゃーっという歓声が響いた。
「李斎、李斎だわ！」
　中年女達の集団が家の中になだれ込み、李斎を取り囲む。何人かは白蘭のように赤子を背に負っていた。李斎は彼女たちの顔を見て誰が誰だが一生懸命思い出そうとするが、その間も女達は興奮を隠さずまくし立てるのをやめない。
「相変わらず、カッコいいわあ！」
「ううん、昔より一層磨きがかかった感じ」
「軍の中でもとっても強いんでしょ。何て素敵！」
「ねえねえ、外に居たのが天馬なんでしょう。後で跨って見せて」
「きゃあ、私も見たい！」
　そうそう、と一人が手にしていた袋から何かを取り出した。
「これ、果物の砂糖漬け。ふんだんに砂糖を使った取って置きの品よ」
　負けじとばかり別の女が小さな壷を差し出す。
「こっちは佃煮。姑から習った我が家ご自慢の味よ。是非食べて」
「ねえ、これ。私の娘時代の晴れ着がもう派手になって着られなくなってしまったから、巾着袋にしたの。布はいいのよ。あれば便利だし。使って頂戴」
「櫛、櫛はどうかしら。この間亭主が街に出た時のお土産なんだけど。柘よ。李斎のとても綺麗な髪を梳くのにぴったりだと思うの」
　ちょっと待ってくれ。そう言って李斎は立ち上がった。
「それは、自分やご亭主、家族のためのものだろう？　私はいい。有難う。気持ちだけ受け取っておこう」
　しかし女達は首を振った。
「いいの。李斎にあげたいの」
「そうよ、是非持っていって」
「私達、李斎が村から出て行ってしまって、ずっと寂しかったのよ」
「だって、李斎は私達の」
　ここで女達は目配せをし、声を揃えて言った。
「李斎は私達の初恋の君なんですものーっ！」
　言い終わると女達はきゃっきゃと騒ぐ。頬を染めたり、お互い肘をつつきあったり。
　皆それぞれ、顔に小皺がより、二の腕は逞しくなり、腹回りもでんと豊かになった中年女なのに、心の中だけはまるで若い娘時代に戻っているかのようだった。
「……あ、有難う……」
　李斎は引きつった笑顔で礼を述べるのが精一杯だった。