初恋の君

「何が『初恋の君』だって言うんだ……」
　李斎は少々不機嫌な声を出した。すっかり夜となった村を飛燕に跨って見下ろしている。ついさっきまで両親の家で少しばかり話し込んでしまった。でも飛燕の足なら、急げば夜更けには州城に戻れるだろう。李斎は飛燕を止めて村の家々の灯りを見ていた。
「何だかんだ言ったって、みんなには大切なご亭主や家族がいるじゃないか」
　英翔の家で女達はしばらく李斎を中心に盛り上がっていた。が、一人また一人と抜けていってしまう。
「あらまあこの子ったらちっとも泣き止まない。ごめんなさいね、李斎。家に帰って寝かせてやるわ」
「あら、やだ。今日は亭主が早く帰ってくるのよ。ああ残念。でも帰らなきゃ」
　白蘭の抱いている赤子もぐずりはじめ、上の子供達も
「お母さん、お腹が減ったよう」
　などと母親に訴え始めた。それを機に李斎も英翔の家を辞すことにしたのだった。
　李斎の実家に向かう道すがら、見送ってくれた英翔が真剣な顔で李斎に言った。
「いいか。軍を辞めて誰かと婚姻したくなったら、俺に声を掛けろよ。俺は随分顔が利くんだ。必ずお前に合う男を見つけ出してやるから。な」
「……有難う、英翔」

　李斎は恋人や夫がいないことは別に気にしていない。仕方がないと諦めている。
　軍に入って以来、交際を申し込まれれば出来るだけ応じてきた。当然相手は恋人として振舞うし、李斎にもそう振舞うよう望む。どう振舞えば良いのか李斎にだって知識としてはあるし、その通り振舞うこともあった。けれども――これでよいのか、と逡巡する気持ちから抜け出せることはなかった。
　心がついていかないのだ。誰と共にいても、頬が染まるような熱も高鳴るような胸の鼓動も感じない。一緒に居れば楽しいことは楽しいが、いなくても別段寂しいと思わない。望まれれば嬉しいし、求められれば有難いと思うけれども、応じるのが面倒だとさえ思うこともある。
　恋という感情を李斎はまだ知らなかった。彼女がそれを知るのは、ずっと先のこと、蓬山でなにもかもが規格外れの男と出会って、更に後の話である。
　李斎の方から男達に別れを告げたことはなかった。男達の方が気付いていった。この女は自分が想うほど自分のことを想ってはくれないことに。友情の延長以外の感情を抱いてくれないことに。そしてある者ははっきりと別れを告げ、ある者は自然と疎遠になった。
　仕方ない。李斎はそう思っている。自分は恋人や夫というものとは無縁な性分なのだろう。自分が悪いのだ。

　それなのに、今に限って、李斎は村の家々に灯る明かりを見て切ない気持ちがこみ上げてくるのを抑えることが出来ない。みんなには家族がいる。あの灯りの中で、家族が集まりきっと楽しいひと時を過ごしていることだろう。それを思うと李斎は寂しかった。
　両親は元気そうではあったが、会うたびに老け込んでいくのがわかる。白髪が増え、腰が曲がり、話がくどくなっていく。何より生気というものが少しづつ抜け出ていっているように感じる。いずれは、この世を去るのを見送らなければならないだろう。
　英翔から、李斎が軍に入るよう両親が勧めたいきさつは聞いた。両親はどれほど胸を痛め、悩んだことだろう。それでもそれを気付かせないよう心を配ってくれたのだ。そして軍に入ってから娘の活躍も心から喜んでくれた。このように自分を慈しみ、見守ってくれた温かい両親。けれども、いつかは別れなければならない。そしてその後――李斎に家族はいなくなる。
　李斎が次の将軍になることはほぼ確実だった。将軍になれば官邸を賜るし、使用人も与えられる。けれども、使用人はあくまで使用人なのであって家族ではない。李斎が彼らにしなければならないことは彼らの良き主になることであって、決して愚痴をこぼしたり甘えたりするわけにはいかない。
　州城に戻る気持ちが萎えていく。そこで李斎を待っている日常はあまりにも寒々とした侘しいものに感じられて仕方なかった。李斎は飛燕を止めたまま、ただ無言で村の明かりを見つめていた。
　――ぽとり。
　飛燕が顔を上げて李斎の方に首を巡らせた。この獣の賢そうな目が、今は驚きを湛えて李斎を見つめている。
「ああ、済まないな飛燕。お前の主は少々涙もろいんだ。水滴が冷たかったか」
　李斎は拳で涙を拭いながら飛燕に話しかけた。
「悪いが、もう少しだけ泣かせてくれないか？　村の中でも州城の中でも私は泣くわけにはいかないから。だから、ここで泣いておこうと思うんだ」
　ふっと獣の匂いが濃くなった。え、と李斎が思う間もなく、ざらりと湿ったものが李斎の頬を撫でた。
「飛燕……」
　飛燕は李斎の右頬の涙を舐め取ると、今度は左の涙を舐め取る。
「………………」
　李斎の目から一層涙が溢れ出す。飛燕はいちいち丁寧にそれを舐め取ってやった。
「有難う、飛燕」
　李斎は泣き笑いの顔で飛燕の首に抱きついた。その首筋の毛の中に顔をうずめて話しかける。
「そうだな。私にはお前がいるものな。よし、お前と私は今日から家族だ。よろしくな」
　飛燕はくうと鳴いて李斎に応えた。