初恋の君

「失礼を」
　俯いたまま一声置いて李斎は席を立った。驍宗を卓に残し、そのまま窓の方に足早に向かう。
　李斎は驍宗に聞こえぬように音を潜めて鼻をすすった。今、涙を流して泣いているところは見られたくなかった。
　たまたま昨日、泰麒が来て話題になったのだ。李斎は随分と涙もろい、と。
「李斎が瑞州師将軍に就任した時に、僕がお祝いの花束を持って行っただけでも涙ぐんでいましたものね。僕、ちゃんと見ていたんですよ」
　台輔はそんな昔のことまで持ち出し、驍宗と二人して李斎は本当に涙もろいとからかったのだった。
　だから、今ここで泣いているのを見られたくない。けれども――けれども、飛燕のことを思い出すと、ぼたぼたと李斎の頬を涙が流れ落ちる。
　天馬にしては小柄なほうな、性格の柔らかな獣だった。戦場へ連れて行くのは不憫だったが、いつも主である李斎の指示に懸命に応えてくれた。
　いつも李斎と共に闘い、共に旅をした仲間だった。自身の運命を大きく変えた蓬山への昇山も。阿選の追っ手から逃れながら同士を募ろうと戴国中を彷徨ったときも。そして罪を背負って虚海を越えたときも。いつもいつも飛燕は自分と一緒だった。
　李斎が希望を失いかけた時、妖魔にえぐられた瑕が痛む時、旅の苦しさに思わず涙が零れ落ちた時、飛燕は賢そうな目に労わりの表情を浮かべて心から李斎を慰めてくれた。
　よく首筋を抱いてやった。短めの翼に覆われて一緒に眠ったこともあった。毛を梳いてやればくるるうと気持ち良さそうに鳴いた。飛燕が元気でいた頃のささいな記憶の一つ一つが次々に思い浮かび、李斎の胸に迫ってくる。
　――飛燕――。
　李斎は声にならない声で、かつての愛騎の名を呼んだ。そしてたまらず膝を折りそうになる。
「李斎」
　いつの間にか背後にやってきていた驍宗が李斎の肩を抱いた。李斎が振り返ると、そこには家の灯りのように温かな紅い瞳があった。驍宗は李斎の頬を伝う涙を指で拭きとってやりながら、穏やかに語りかける。
「蒿里が飛燕の最期を看取った時のことは聞いているか」
「いえ、あまり詳しくは……」
　李斎は辛すぎてその詳細まではまだ聞いていない。驍宗は微かに苦笑を滲ませて言った。
「私が李斎を妻に迎えたと聞いて、少々不機嫌になったらしい。蒿里はその時の飛燕の心境を、娘を嫁がせる父親のようだったのではないかと言っていた」
　李斎も口の端をわずかに持ち上げ苦笑する。
「蒿里が、飛燕の主は自分の主がしっかり守るから安心するように、と言ったら納得してくれたようだが――」
　驍宗は李斎の目を覗きこんで続けた。彼にも、武将と騎獣との絆の強さは良く分っている。
「私からも直接飛燕に言いたかった。お前の主、劉将軍はこの私が誠心誠意お守り申し上げるゆえ心配には及ばない、と」
　自分の口からそう飛燕に言いたかったのだ、と驍宗は李斎を見つめたまま繰り返した。そして彼女を自身の胸に抱き取る。
「それに李斎には蒿里もいる。私と蒿里と――。李斎にはもう立派な家族がいるだろう？」
　そう優しく言い聞かせる驍宗を、李斎は涙に濡れる瞳でしばし見上げた。それから彼の胸に顔をうずめる。
　くすん、くすん――。
　李斎はしゃくりあげ始めた。大切なものを失った心の痛みをようやく外に出せる場所を得て、彼女はまるで少女のように泣いていた。驍宗は黙ってその背中を撫で続けてやる。

　二人のいる部屋には温かい明かりが灯っていた。正寝を囲む園林の梢の上に、空中から舞い降りたものがいればわかるだろう。その部屋の明かりが、あの時李斎が飛燕と共に見下ろしていた故郷の家々の明かりと同じくらい温もりに満ちたものであることが。そして今夜も明日の夜も、戴国中で、このような平和で優しい明かりがそこかしこに灯っていることが。
　李斎は園林の梢に飛燕の気配を感じた。彼女は窓の外を見上げる。その気配は何かに安堵したようにゆっくりと、遥か彼方へと飛び去っていくようだった。