宝剣

　洞窟の中を三人の人影が進む。この洞窟はもともと坑道として掘られたものであり、人が楽に行き来できる高さがあった。
　先頭は赤茶の髪をした長身の女。続くのはまだ少年の面影を残す、鋼色の髪の青年。そして銀白の髪の男が、その青年に肩を借りながら歩く。
　赤茶の髪の女は戴国瑞州師将軍李斎。左手で松明をかかげ、嬉しげな表情で、軍人らしくコツコツと規則正しい足音を響かせて前へ進む。続く青年は戴国麒麟で、こちらも晴れやかな表情である。しかし、その肩を借りる男――戴国国王・驍宗の貌だけは、固く暗いものであった。
　李斎と泰麒は、それぞれ大きな喪失を抱えながらも、敵の追手を逃れつつ主を探し、先程やっと王を見つけ出したのだった。驍宗はここと同じような廃坑の最奥に、堅牢な檻で隔てた獄に繋がれていた。
　どういう訳か、彼が囚われの身となる以前禁軍将軍として誇りにしていた宝剣が、驍宗から見えはしても決して届かぬ場所に転がされていた。李斎は、逃避行の中で失った利き手ではなく左手ではあったが渾身の力を込め、その剣で檻を叩き割って、六年以上に及ぶ監禁から驍宗を解き放ったのだった。
「主上」
「……蒿里、李斎……」
　驍宗は、この六年の間ろくに食物を与えられていなかったのだろう。昔日の面影を知るものには痛ましく感じる程、骨と皮ばかりにやせ細っていた。そして、やっと自由を得たというのにその表情は暗い。しかし、その赤い瞳には強い決意を示す光が確かにあった。だから、その瞳に重苦しい影が差していても、二人は今後の明るい展望を、今まで何度も夢見てきたように事態が展開していくことを、全く疑わず心から喜んでいたのだった。
　とにかく、獄を脱した王の居場所を敵に知られてはならない。三人は夜の闇に紛れ、できるだけ人の目につきにくい他の廃坑に入り、通常奥に設けられている鉱員のための休息所を目指した。
　現在、戴は荒廃に荒廃を重ねている。逆賊によって驍宗が王位を奪われてから六年が経ち、国の中で生き延びるのも国を脱出するのも難しい中を、李斎が命を賭けて慶国に助力を請い、他国の力も借りて何とか泰麒は取り戻した。けれども、覿面の罪の存在を勘案すると、戴を救うにはやはりまず王を探し、他国に兵力を借りるしか他に方法は無いという結論に達したのだった。
　その唯一の道が今開けた。後は他国――豊かで安定した延がいいだろう――に王師をお借りする。そして驍宗を立てて白圭宮を取り戻すのだ。そうすれば、跋扈する妖魔も姿を消し、田畑は作物に恵まれ、国は整い始めるだろう。

「さあ、火も無事つきました。主上、台輔、こちらに来てお休みください」
　鉱員のために設けられた坑道内の広場で、李斎は火を起こし、二人にそのそばに座るよう促した。途中で拾い集めた小枝と荷の中にあった荊柏だけが燃料であったから、その炎は小さい。
　薪を取って参りますね、李斎は残る二人に声をかけて洞窟の外へと歩き出した。
「……っ」
　声にならない泰麒の悲鳴に、彼女は素早く振り向いた。目に飛び込んで来たのは、これから戴を救ってくれるはずの王が、彼の剣で自身の首を貫こうと、その刃を自分の喉に突きつけている姿だった。
「何をなさるっ」
　李斎が飛び掛るように驍宗に体当たりすると、彼はあっさりと崩れ落ち、剣は鈍い音をたててその傍らに落ちた。跪いて片方しかない手を地面につけ、荒い息と共に李斎は問う。
「いったい、何ということを……何故こんなことを……」
「私のような王など、いない方がいいだろう？」
　尻もちをついたような姿勢のまま、暗い目で驍宗が言い放った。目にはもう強い光はない。あれは禅譲を決意した目だったのだ。
「私が禅譲して、蒿里がもっとましな王を選べば良い。なぜ止めるんだ」
　言葉の内容も、どこか投げやりな態度も、かつての男の姿と似ても似つかない、別人のようだった。あれほど苛烈で覇気に満ちた男だったのに――今は貧相な身体で尻を付き、暗く淀んだ目で地面を見つめている。
　泰麒には信じられなかった。悪夢をこれは夢だと言い聞かせながら寝入ろうとする者のように、心をどこかに定めようとしても定まらず、ただ硬直したまま突っ立って、泰麒は無言で目の前のみじめな男を見つめていた。

　沈鬱な空気が垂れ込める洞窟に、ぱぁあんと乾いた音が響いた。
　泰麒がはっと身じろぎをして我に返ると、李斎が驍宗の目の前に居り、驍宗は右手を右頬に当てていた。李斎が、片方しか残っていないその左手で力の限り驍宗の頬を張ったのだ、と泰麒が思い至るとほぼ同時に、李斎は再び左手を伸ばし驍宗の胸倉を掴んだ。
　鬼女でもこれほどではあるまいという憤怒の形相を浮かべ、それでも怒りを低く抑え、獰猛な犬が唸る様な低い音で、自分の喉元まで掴み挙げた男の顔に問う。
「お逃げになるおつもりか」
　驍宗は依然李斎と目を合わさないままだが、その言に少しだけ眉を顰めた。構わず李斎は続ける。
「貴方は蓬山でこう仰ったそうだな。『私は恥をかくのに慣れていない』と。だから王に選ばれなかった自分は戴を去るのだ、と。今度もそうやって逃げるおつもりか」
　泰麒は、つい二、三日前にこの時の話を彼女にしたことを思い出した。二人が驍宗について語るとき、彼の強い覇気、苛烈な姿勢、王に相応しいその器について賞賛するのが常だったから、このような驍宗の負の側面を示すような話はひどく珍しいことだった。その後彼女は何か考え込んでいたようだったのも彼は今思い出した。
「確かに、今復位しても、以前のように傑物よ、賢帝よ、と称える者はいないだろう。おめおめ逆賊に囚われ、国を荒廃せしめた愚王と罵る者とて出てこよう。妻や子、親兄弟を失った怒りを貴方にぶつける者も多いだろう。そう、この失態は史書に書かれることは免れないだろうな。それがお嫌か、貴方は。今度も自分の面子大事に逃げ出そうとするのか。禅譲すれば、死ぬ勇気はあった、と褒められるとでもお思いかっ」
　話しながら李斎はどんどん激していき、最後は洞窟に響き渡る絶叫となった。
　それでも驍宗は項垂れたまま反応を見せない。やや間を置いた後、李斎は苦々しげに拳をほどいた。そして、力なく再び地面にぺしゃんと尻を突く驍宗から踵を返すと、口を真一文字に引き結んでつかつかと洞窟の出口へ歩き出した。
「李斎」
　泰麒は立ち去ろうとする李斎の背中に声をかけた。
「李斎。剣を、剣を持っていって下さい」
　再び驍宗が自死を企てようとしたら、泰麒一人で止めることは出来ない。いくら驍宗がやせ衰えていても、本性が慈悲の生物が、相手と揉み合って剣を取り上げるということは出来そうに無かった。
　李斎は、驍宗のかつての宝剣を厳しい顔で睨み付けた。それは随分長い長い間だった。そうして漸く静かに口を開けた。
「――剣を取り上げられて、それで何を言おうが信を置くことはできない。貴方も武人なら、その言を剣に誓うがいい」
　そう言い終えると、彼女は驍宗を強い瞳で見つめ、一瞬瞑目して、再び踵を返した。そうして、規則正しいがどこかか弱い足音と共に、そこから立ち去っていった。
　
　後には泰麒と驍宗の二人が残された。
　口を開けば、そこから悲しみが零れ落ちそうな気がするな――とぼんやり考えながら泰麒はそこに佇んでいた。しかし、李斎は興奮のあまり全く触れなかったが、驍宗に説明しておかなければならないことがある。
「僕には、角がありません」
　俯いたまま驍宗は微かに目を見開いた。
「つまり、もう僕は正確には麒麟ではないんです。――だから、驍宗様が禅譲なされても、僕には新しい王は選べません。どうしても新しい王を、というなら僕が死んで蓬山に泰果が実るのを待たなければなりません。でも、それまで、一体この戴の中で何人が生き延びられることか――」
　驍宗が顔を上げて泰麒の顔を見つめた。依然覇気など感じさせぬうつろな眼であったけれども。言わねばならない言葉を言っている内に、言いたい言葉を泰麒は見つけた。驍宗が顔を上げてくれたのに励まされて、彼は自身の願いを口に出すことができた。
「これは、自分の命惜しさで言うんじゃないんです。僕は今だって驍宗様に王様になっていただきたいんです。仮に僕に角があって、他に王を選べたとしても、僕は、僕は驍宗様にお仕えしたいんです」
　頬を紅潮させて、まっすぐな瞳で、泰麒は掻き口説いていた。
「――独りにして欲しい」
　驍宗はまた地面を見つめてぽつんと言った。
　泰麒は泣きたかった。地面に突っ伏して泣きたいだけ泣き、貴方が死ぬというのならその剣で自分も殺して欲しい、と請いたかった。絶望に挫けてしまいそうになりながらも踏みとどまったのは、先の李斎の姿が浮かんだからに他ならない。彼女は敢えて剣を驍宗の許に残していった。そのことを胸の内で反芻ながら彼は簡単な答えを搾り出した。
「わかりました――」