宝剣

　剣が地面を転がる鈍い音が聞こえるような気がする。
　あの男はよく、牢の中の驍宗の前で、彼の宝剣を足でもてあそんで見せた。

「音に聞こえた乍将軍も落ちたものよ」
　阿選は嘲笑を浮かべ、剣を足で小突いて転がす。
「切られてあっさり倒れたそうだな。地に突っ伏す姿はまるで蛙のようだった、と私の部下が言っていたぞ」
　クククと阿選は喉を鳴らして笑う。背後を襲うような卑怯な真似をして何を言うか。驍宗は思うが口に出さない。相手はただ彼を愚弄したいのだ。
「稀代の傑物の、その治世がたったの半年とはな」
　今度は剣をぽーんと蹴り上げた。がらん、と剣が落ちる音が洞窟に響く。阿選は、驍宗に近づき牢の中を覗きこんだ。
「私をただの簒奪者だと思っているんだろうな、驍宗よ」
「違うのか」
「違うな。王などかつても居たし今もいる。そんなありきたりなものよりもっと大きなことをして見せてやる。そう、お前だけは最後まで見ておくのだな」
　怪訝には思うが驍宗は問い返してやらない。阿選はつまらなそうに、ふんと鼻をならすと話題を変えた。
「ところで、お前の可愛い黒麒麟は行方知れずだ」
　だが、私が生きているのだから蒿里も生きてはいるのだ。驍宗は挑発に乗らぬよう自分に言い聞かせるが、ごく僅かに顔が強張ったのを阿選は見逃さない。
「角目掛けて切りつけたら、蝕を起こして姿を消してしまった。さて今頃どこでどうしているのやら」
　驍宗の無表情が意識して作られたものであることを確かめると、阿選は通りすがりに剣を足で払いのけて立ち去っていった。

　この剣で自ら命を絶とうと思うようになったのはいつの頃だろう。
　それは、阿選があれを持ってきたのが端緒だったと思う。その日、阿選は手に何かを持っていた。遠目には黒い持ち手に赤黒い楕円球がぶらさがっているように見える。阿選はそれを驍宗に付き出した。黒い持ち手は人髪であり赤黒い楕円の球は人の頭であった。驍宗は武将だったからそんなことでは動揺しない。だがしかし――。
「宣角っ」
　その肉塊に人の顔を認めて彼は叫んだ。ひどく取り乱したように思うが、よく覚えていない。
　宣角は真面目で優れた男だった。土地や戸籍の管理をするという地味な地官の中でも彼はさらに地味な男であった。が、禁軍将軍の驍宗が兵役に関して地官府を時々訪れる内に、戸籍簿を手に取る度いちいち頭上に捧げ持つこの男の習慣に気づいた。何故そのような真似をする。驍宗の問いに「戸籍簿は、民がこの国を信頼した証、我々官がその信を受け取った証でございますから」と彼は煌煌しい驍将に気後れも気負いもせず淡々と答えた。この男だ、と驍宗は思い、登極にあたって地官府の長、大司徒に抜擢したのだった。
　そのような男がこんな風に命を落としていいはずがない。あれほど民を愛した男なら、どれだけ大きな恵みを民に与えていたことか。どうして、なぜこのようなことになったのだ。一体天は何を見ているのだ。いや違う、私がこの男を取り立てていなければ、私が目を掛けていなければ、こんなことにはならなかったのではないだろうか。ああ、早くなんとかしなければ。私が見出した有能な人材がこのような目に遭う前に。一日でも早く。
　驍宗の焦りをあざ笑うように、阿選はその後も驍宗が目を掛けた者達の首をまるで土産のように持ってきた。遠方で討たれたのか単に阿選の気が向かなかったのか土産のない時もあったが、その代わりに彼は自分に組せず逆らった者達の末路が如何に哀れだったかを縷々語るのだった。

「劉将軍は、逃げたそうだぞ」
　ある日阿選は驍宗にこう告げた。
「お前は随分あの女に懸想していたようだがな。あの女はなんとも思っていなかった。臣としても、もうお前に用はないようだ」
　哀れな男よ、と哄笑する阿選を横目に驍宗は安堵していた。逃げたのか。そうか。それならもう、私は彼女のあの美しい顔が無残な肉塊に変わり果てるのを見なくて済むのだな。彼は心の底から息を吐いた。それは、同時にひどく侘しかったせいでもあった。
　彼の記憶の中で、泰麒と彼女は一対のものとして存在していた。二人とも彼とは全く異質で、別の世界から彼に会いに来たように思われた。そしてこの二人は彼の中の何かを決定的に変えてしまったのだった。
　泰麒の行方は依然として知れない。その不在がこう長きにわたるのなら、抜き差しならぬ理由で戻ってこられないのだろう。それでも、生きているのならいつかは新しい王を選ぶことができる。そうしてその王と共に生きていく未来がある。
　それから李斎も。彼女がどこに向かったか、それは分からない。だが誰に対しても誠実で温かい彼女なら、どこへ行っても愛されることだろう。王から臣下として、部下から将として、仲間から友として、そして男から女として。
　驍宗はかつてない激しい疲労を覚えた。自分の人生に交わりそのまま共にあるものと彼が思い込んでいた二人の人生が、ただ一点で交わっただけで、彼を残して別の方向へとまっすぐ伸びていく。心の中で、去りゆく二人の面影を見送って、驍宗は自分に残されたものを思った。自分にはもう、自身の人生に幕を下ろすことで新しい王を用意することぐらいしか、この二人に、そして民にしてやれることはないように思われた。
　この日以降、彼は、手を伸ばしても届かない自分のかつての宝剣を見つめながら、暗い決意へと堕ちていったのだった。