一国の獣

　カチリ――李斎の後方でごく小さな物音がした。あまりにか細かったせいか、卓の真向かいに座る文姫は全く気付かないようだ。書類を繰りながら、李斎に奏の福利制度について説明を続けている。
　ガシャン――続いて玻璃窓の開く音がした。これには文姫も手を止めて視線をそちらに向けた。李斎も首をひねって後ろを見る。
　南国らしい穏やかな冬の青空を背に、いかにも人好きのする青年が窓を乗り越えて部屋に入ろうとするところだった。
「お兄様！」
　文姫が非難がましい声をあげた。ではこれが卓朗君か――身なりやその雰囲気から特に警戒心を抱かずにいた李斎もこれには驚いた。一国の太子が、窓から部屋に入るという、子供の悪戯のようなことをなさるとは……。
「あれえ、ひょっとしてそちらに居らっしゃるのは泰后妃でいらっしゃるのかな？　さっき父上の部屋に入りかけたら、窓から泰王がいらっしゃるのが見えたものだから、入るのをよしたんだ。てっきり后妃も泰王と同じ部屋にいらっしゃるものと思って、こっちに来たのに……」
「泰王はお父様とお父様のお部屋でお話し中。泰后妃には、私の部屋で奏の福利制度についてご説明申し上げていたところよ」
「いやあ、こりゃ間が悪かったなあ」
「窓から入るなんて悪癖さえ改めれば、間が悪い思いをすることは激減するわよ。なんてお行儀が悪いのかしら。さ、お兄様。泰后妃に失礼のお詫びをしないと」
　李斎は
「私の方は一向に……」
　と言ったが、青年は窓からするりと部屋に滑りこむと、丁寧な礼をとった。
「ご無礼申し訳ありません、泰后妃」
「それは全く構いませんが……卓朗君、卓朗君は騶虞に乗っておられるのですか？」
　主を部屋に送り込んだ騎獣が、窓の外に全貌を現していた。見間違えようはずもない。不思議な五色に輝く身体、複雑な色をした目をもつその猛獣。騶虞が窓の外で主の指示を待っていた。
「んもう。お兄様、早く騎獣を戻しておしまいになって」
「いや、ちょっと待って」
　利広は妹を制すると、李斎に向かって爽やかに微笑んだ。
「そう言えば、泰王も騶虞をお持ちでいらした。ご覧になったことは？」
「あります。もっとも主上の騶虞――計都という名でしたが――はもっと猛々しい印象を与えたものですが……」
「その辺は主に似るのかな。僕のはすっかり人慣れしちゃって。泰王にはまだご挨拶も申し上げていなくて、窓から覗いたきりなんですが。それでも、その飼っていた騶虞が猛々しさを失わなかったのもわかるような気がするな」
「…………」
　李斎は計都を思って黙った。かの獣は誇り高く、主と定めた驍宗以外の他の者に指一本たりとも触れさせはしなかった。先の大乱では、仕留めようとする阿選の軍勢が相当な苦労を強いられたと聞く。
「立派な王様ですね」
「え？」
「泰王ですよ。先ほど窓の外からお見かけしただけですけど。良い意味で押し出しの強い、国をグイグイ引っ張って行きそうな。そうだね。さすがに元騶虞の主、しかも自ら捕えて調教までしただけの器量の持ち主」
　最後はひとりごちるようにそう言うと、利広は文姫に向けて言った。
「この猛々しくも優雅な獣の上に跨るには、それに負けない存在感がいるんだよ」
「あら、お兄様にそんなものがあって？」
「人好きが良い――とよく言われるよ。いろいろ運にも恵まれているし。今までのところ騶虞に乗っていて不審がられたことはないさ」
「単に騎獣商人とでも思われているんでしょ」
　騶虞は十分に飼い慣らせば誰でも乗せはする。けれども利広のいうとおり、どこかで主としての存在感を示さなければ、獣は主を侮ってしまう。その点、計都と驍宗との深い絆は理想的なものだったと言えた。
　妹にやり込められた利広は、また李斎に向き直った。そして李斎がびっくりするようなことを言い出したのだった。