階梯

　頬をなでる風に、かすかに梅の花の香りを感じたような気がした。
　そんなはずはないのに、と泰麒は微苦笑を浮かべる。暦の上では春になっても、戴に実際の春が訪れるのはずっと後になってからだし、ここ文州の山間の盆地にあってはなおのことそのはずだった。
　きっと僕の心が明るく晴れ渡っているからそんな風に感じるのだ、と泰麒は思った。
　文州で起こった反乱は、誰もどんな暴力も振るうことなく、仁を本性とする泰麒にとって理想的な方向に収束しようとしていた。
　叛徒の頭目は、驍宗の見込んだとおり頭の切れる人物で、自分を取り巻く仲間達の空気が変わったのを素早く読み取ったらしかった。驍宗の方も、自分に似て誇り高いであろうこの男の面子を慮った解決策を示してやった。
　すなわち、文州を王の直轄とするという案である。これで玉泉に拠って生活していた者は、州侯に納めていた税を納めなくてよくなりその分を自分たちの取り分とすることが出来た。州侯はどうやら相当な搾取をしていたらしく、叛徒は具体的な取り分を勘定した後、この驍宗の出した案に満足する旨返答してきた。
　そして、叛徒は暴力に訴えることは最後までなかった、ということで、この件は反乱ではなく単に王に民の願いを直訴しただけという形で処理されることになった。これも、誰かが罰されるのではないかと心配していた心優しい泰麒を喜ばせた。
　喜んでいたのは泰麒だけではなかった。国府側の者で、主に税収の面から今回の文州の独立を心配していた者もにんまりと笑っていた。これで国庫に安定した税収が見込めるからである。誰かが喜んでいるのを見るのが泰麒は好きだったから、これも彼にとっては嬉しいことだった。
　これで戴国の経済的な基盤はかなり強固なものとなった。むしろ今回の文州の反乱があって良かったくらいですね、と軽口を叩く者もいる。泰麒に限らず、皆の心も軽く弾んでいるようだった。
　もっとも少しばかり気にかかることはある。泰麒は、蓬莱にいた時あちらの世界では最も富んだ国がやたらと他国に干渉して戦争を招いているのを知っている。大体、今回も富んでいるからこそ起こった反乱だった。経済的な貧困が解決しても、それがそのまま政治的な安定をもたらすとは言えない。
　やっぱり僕がちゃんとした麒麟だったら、もっといいのに。だったら驍宗様も自由に手腕を発揮できるのに。と彼は思うが、それを聞いた彼の主は太い笑みを浮かべ「私のことは案ずるな」と彼の頭を撫でた。まるで彼が幼い子供であるかのように。僕はもうそんなに子供ではありませんよ、と彼は口を尖らせて文句を言ったが、心の中ではやはり嬉しかった。

　――こんな清々しい、穏やかな気持ちでここに佇む日が来るなんて――
　驍宗の陣をとりまく山々の峰を見渡しながら、顔をほころばせて泰麒はそんな感慨に耽る。
　彼が前回文州を訪れたときには、こうやって回りの風景を眺め渡す余裕すら全くなかった。
　あの時の戴はまさに滅亡の危機に瀕していた。利き腕を失った李斎が決死の形相で彼の側にいた。持ち慣れない左手で何とか剣を振るい、阿選の追手から彼を守ってくれていた。今にして思えば、泰麒の無事は本当に薄氷の上に在った。見つかるあてもなく王を探す日々は、絶望と紙一重で成り立っていた。
　そしてあの洞窟。やっと探し当てた彼の主は、そこで彼を置きざりにして暗い死の淵へと自ら沈み込もうとしていた。思い出しただけで彼は心が痛むのを感じる。生か死か。李斎は荒々しく賭けに出た。そして泰麒の主は、泰麒と李斎の望む結果で応えてくれたのだった。
　泰麒は自分の鼻の奥がつんとするのを感じた。李斎ったら――。彼は鼻をすすってひとりごちた。日頃驍宗様を大胆だ、苛烈だって言っているくせに、自分だって時々とんでもないことをするんだから――。
　泰麒はふと、坑道を訪れてみたくなった。もちろん、あの洞窟がどこであったかなど覚えていない。でも、どこか近くの坑道でいいから覗いてみたかった。万事が解決したわけではないけれど、こんな時くらい、あの厳しかった日々と比べて今の穏やかな幸福を確かめてみてもいいように彼は思った。

「ちょっと出かけてくるね」
　そう周りの者に言い置いて、泰麒は驍宗の陣を離れて山の中へと向かった。