階梯

　いくつかの廃坑の前を通りすぎてから、泰麒はなんとなく心引かれた坑道へ入っていった。あの時は余裕がなかったから何も覚えていないだろうと彼は思っていた。が、洞窟特有のひんやりとした空気を肌で感じると、五感が記憶を呼び覚ます。李斎が掲げていた松明の灯り、肩にのしかかる驍宗の重み、洞窟に響く三者三様の足音。どれもこれも、安寧を得た今となっては懐かしささえ感じるものだった。
　彼は心地よく追憶に浸っていたので、その声に気がつくのが遅かった。坑道の奥から、何人かの男が話し込んでいる声が聞こえていた。
　それに気付いても、泰麒は足を止めなかった。叛徒との和解はもう殆ど終っている。もう、ここには彼の敵はいない。泰麒は彼らと話したかった。自分は民意を具現するこの国の宰相なのに、直接民と話す機会は滅多にない。一度は反乱を企てた文州の民と胸襟を開いて話し合い、民の心を学びたかった。

「……あの女の肌の柔らかさっていったらもう、思い出しただけでたまらねぇ。あの甘い脂粉の匂いもさぁ」
　この言葉と下卑た笑いに、泰麒は表情を曇らせて立ち止まった。彼らは何を話しているだろう。
「ああ、良かったよなぁ。あの頃は」
「あいつはあの頃、ほんの餓鬼だったからよぉ。わかんねぇんだよ、女の味なんてさぁ」
「そうそう、絹の衣がどんだけ気持ちいいかって、そういう贅沢を知っちゃいない。あの頃は本当によかったぜ」
「腕も立つし頭も回る。だから頭目にしたのに……」
「ああ、驍宗に啖呵を切って見せたところは、やるじゃねえかとおもったんだがな」
　泰麒は目を見開く。驍宗？　どうして彼らはこの国の王を呼び捨てにするのだろうか。
「何が話し合いで解決する、だ。格好つけやがって。結局王に治められちまうじゃねぇか」
「俺たちが欲しいのは、あんなはした金じゃねえんだよ。阿選様が俺たちに恵んでくれたような、あんな夢のような暮らしがしてえんだ」
「そうそう、金も女も好き放題でさぁ……」
　彼らが何者か。泰麒は理解した。この者たちは、あの時文州で驍宗軍に襲い掛かった匪賊なのだ。阿選の、あの逆賊の、残党だ――。
　逃げなくては。泰麒は思った。傲濫は驍宗の許に置いてきた。自分はこのまま彼らに気付かれないうちにここを立ち去らなければ。
　だが、気が急くが故に彼の動きはぎこちなかった。後ろへ、洞窟の入り口へと足を向けようとして、彼はけつまずいてしまった。
　――からーん。
　泰麒の蹴った小石は、やけに大きな音を洞窟に響かせた。
「誰だっ」
　匪賊たちが立ち上がる。彼らと泰麒の目が合った。暫しの沈黙の後、匪賊の一人が言った。
「台輔だ」
　尊称を使うが、そこに些かの敬意もない。泰麒も相手の顔を思い出した。確か話し合いの場で見かけたことがある。
　へへっ、と一人が凶暴さをむき出しにして笑う。
「こりゃあいい。こいつを殺れば、驍宗も死ぬ。また大騒乱だ」
「俺たちも、また暴れまわれるってわけだ」
「阿選さまはいねぇが。でも俺たちの腕なら、その辺を荒しまわりゃあ、金も女も十分手に入るぜ」
　泰麒はじりっじりっと僅かばかり後ずさったあと、ばっと身を翻して全力で走り出した。外へ。洞窟の出口へ。
　逃げなくては――。それなのに衣が纏わりついて上手く走れない。軽装にしてきたつもりだが、蓬莱の服に比べてまだ長い袖と裾が邪魔だった。いや、もっと邪魔なのは自分の身体だ。彼は焦る。身体が重い。重くて速く走れない。追手の足音が洞窟内に反響し、彼の焦りを掻きたてる。彼はひたすら必死で足を前に、前にと繰り出すしかない。
　洞窟の出口を彼は駆け抜けた。急に明るくなって目が眩むが構っていられない。追手の足音はすぐ近くに聞こえていた。後ろを振り向く余裕などないが、もうほんの間近に彼らが迫っているのは感じ取れる。日頃の鍛え方が違うのだ。このままでは捕まってしまう。ああ、捕まってしまったら――。
　――捕まってしまったら。何もかもが無駄になってしまう。死線をさまよい利き腕を失った李斎の涙も。絶望の淵から辛くも甦り、その後は国のため自己を押し殺して生きてきた驍宗の心も。あの騒乱を何とか生き延び、国を安定させるために日々地道に積み重ねてきた官や民の努力も。何もかもが水泡に帰してしまう。――自分のせいで！
　嫌だ！　彼は目を見開く。息が上がって視界も暗く何も見えない。それでも彼は目を見開く。絶対に捕まるのは嫌だ！　みんなのこれまでを無駄になんかさせたくない！
　追手の荒々しい息が耳に掛かってくる。彼の襟首を掴もうとして掴みそびれた手が彼の耳元を掠める。
　――嫌だ！　捕まりたくない！　驍宗様――
　足元に段差があった。それを素早く感じて泰麒はそれを踏みしめる。さらに踏み出した足の先にも同じく段差があった。どうやら階段があるらしかった。訪れたときにはそんなものがあったようには思えなかったが、ともかく彼はそれを駆け上がった。上へ、上へ。彼に足元は見えなかったが、その階段は彼の歩みに合わせたかのように在った。というより、彼が足を出すのにあわせて産み出されてくるようだった。
　急に追手の気配が薄れて、泰麒はやっと後ろを、階段の下を振り向く。彼らとの距離は、目をこらさなければ相手の表情が分からないほど遠く開いていた。
　彼らは驚愕の表情を浮かべて突っ立っていた。階段を昇らず、地面の上に。
　――いや、階段などなかった。泰麒と地面との間には、彼が踏みしめ昇ってきたはずの階梯など存在しなかった。あるのは何もない空だけだった。
　一息ついて彼は、どういうことだろうかと訝しく思う。あれほど重かった体の重みを今は全く感じない。不思議な感触だった。無重力状態ってこんな感じかな、と一瞬思ったが、そんな連想はすぐに掻き消えた。
　自分はこの感触を以前覚えたことがある。そう、ずっと昔。彼が幼かった頃。あの月夜の晩。蓬山を去ろうとする自分の主を必死で追いかけていったあの夜に――。
　彼は再び駆け出した。麒麟が駆け寄る相手など決まっている。彼は主の許へと駆け出した。生まれて初めて転変したときと同じように。鋼色の鬣をなびかせて。このうえもなく優美で神聖な霊獣の姿となって――。