階梯

　泰麒は空を旋回していた。驍宗の陣と州城の上空で何度も旋回を繰り返していた。彼はもう無垢な子供ではなかったから、胸にちょっとした企みを抱いていた。天を駆けながら、彼は自分の身体の軽さ、心の軽さ、そして春の訪れを感じさせる空気の軽快さを楽しんでいた。
　麗らかな日差しに、その美しい姿はよく映えていた。地上では、何人かが彼に気が付いたようだった。泰麒が上空から遠目に見ても、彼らが驚き慌てふためいているのがわかる。彼らは次々と天幕や州城の屋内に飛び込んで行っては、数を増やしてそこから飛び出てきた。
　群集が地面を埋め尽くさんばかりとなった。閑地の中の天幕からも、彼の主と叛徒の頭目とが現われた。表情はよく読み取れないが、きっと驚いておいでだろうと泰麒は微笑み、下降を始めた。
　泰麒は、わざと自分の主から遠く離れた場所に降り立った。群集は彼が近づくとさあっと、はけていった。彼は群集の中を、彼のために道をあける群集の谷間を、できるだけゆっくりと、その優美極まりない姿を見せ付けるように歩いた。
　――麒麟だ。
　ため息まじりの声があちこちで漏れる。誰に話すのでもない。人々はただ自分の驚きを口に上らせただけだった。
　――なんと美しい。
　絶対的な美は、善や真理を想起させる。人々は、自分たちが何故今こうやって生きているのか、その根源を思い起こし始めた。
　暗く冷たく厳しい時を生きてきた。弱い者から消えて行った。道や善意や、慈愛や誠意、こういったものは悉く踏みにじられた。誰も助けてくれなかった。だから、仁など無いのだと思った。その不在をどれほど怒り、憎んだことか。
　弱肉強食の仁のない世界、そこで自分達だけ富んで何が悪い。こういった思いが今回の謀反の底にあった。王と和解するといっても、そこには何の心もなかった。自分達はただ、損得を勘定して得だと思ったから王に従うことにしたのにすぎない。
　だが、しかし――。自分達は何故あれほどまで、仁の不在に憤っていたのだろう。こうして仁が具現した、この畏れ多いまでの美を目の当たりにして、人々は自分たちの憤懣が忽ち氷解していくのに戸惑っていた。
　ぽつりぽつりと答を見出した者が現われた。そう、自分達は憤っていた。仁というものが自分達の前に存在しないことを怒り、恨んでいた。だがその憤りは、それだけ自分達が仁の存在を強く希求していた証ではないのか。辛く苦しい時も生きてこられたのは、仁を施す者がどこかにいるという希望があったからではないのか。そう、自分達は、明るい煕光と共に、それが再び来臨することを心の奥底から強く激しく望んでいたのではなかったか――。
　李斎の救国の英雄譚はここにも正しく伝わっていた。かの隻腕の女将軍は、碧霞玄君にも西王母にも臆することなく言ってのけたのだ。麒麟は光、希望なのだ――、と。
　一人、また一人と膝をおり地に伏していった。誰かがそうすれば、その周りの者達も、自分が抱いている感激を表現するすべを得て、嬉々として地に伏した。群集は皆その身を地に投じて、この優美極まりなき霊獣にその喜びを捧げたのだった。
　泰麒が主の側へ、彼と視線が合うほどにまで近づいたとき、立っているのは主と叛徒の頭目だけだった。さらに泰麒が歩みを進めるうちに、叛徒の頭目も膝を折り、地に伏した。その肩は小刻みに震えていた。驍宗は若い男の背を暫く見やった後、泰麒を見て微笑んだ。泰麒がこれまで見た中で最も穏やかな笑みだった。
　泰麒は主の前まで来ると、跪いた。群集が固唾を呑んで彼に注意を向けていることを確かめながら。
「蒿里？」
　主はやや怪訝そうに問う。泰麒は言葉を発しはじめた。ここにいる皆に聞こえるように朗々と。幼かったあの時と違って、今再び、今度は堂々とこの言葉を口にすることが出来る嬉しさを噛み締めて。
「御前を離れず――」
　地に伏す人々の上を、青年の若々しい声が風にのってわたっていく。
「蒿里……」
　喜びと共に泰麒は続ける。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと、誓約申し上げる」
　一瞬の沈黙の後、静かだが力強い声が響いた。
「――許す」
　静寂が在った。
　人々の中には堪らず顔を上げたものもあった。くしゃくしゃにゆがめる寸前の表情で微動だにせず、彼らは王と麒麟を見つめていた。
　誰かが声を張り上げた。
「再生だ！　再生したんだ！　俺たちの戴は生まれ変わったぞぉーっ！」
　この声を皮切りに、地響きのようにうねる歓声が、山間に満ち溢れた。ある者は再び地に突っ伏して声をあげて泣き、ある者は叫びながら走り出し、誰彼構わず抱きついて咆哮する。万歳！　戴国万歳！
　泰麒は主を見上げた。見下ろす主は、万感胸に迫る思いをその貌に表していた。その目に光るものがあるようにも見えたが、主は歓呼の声に応えるために頭をあげてしまい、泰麒にはそれが涙かどうかわからなかった。