階梯

　李斎は卓上に書物を広げながら頬杖をついてため息をついていた。驍宗が文州に向かってからも毎日、彼女は彼の執務室にやってきて、適当に書物を選んで卓上に広げる。そしてその書物はいったん開けられたまま一頁たりともめくられることなく、一日中彼女のため息を吹きかけられるばかりだった。
　ため息をついた自分に気付いて、彼女は軽く首を振り考える。大丈夫だ。装備も兵站も十分準備は整っていた。将軍であった時の自分の経験からみても、驍宗の率いる軍勢は完璧だったと彼女は自分に言い聞かせる。
　再び彼女はため息をつく。そんな自分に気付いて彼女は目を上げて考える。大丈夫なはずだ。主上にはあの傲濫がついている。あの伝説の妖魔がいかに強大か自分はよく知っているではないか。
　主上――。彼女は自分の頬を指でなぞる。出立前に男が撫でた跡をたどるように。彼女の唇から、それまでのため息とは全く異なる吐息が漏れる。毎日、一日一回はこうやって、あの月光の中で彼女が感じた胸の震えを確認する。でも、それは一日ごとに薄れていくようで、彼女はそれが寂しくてたまらない。
　――どうか、一日も早くお戻りになりますように。
　彼女はみたび大きなため息をついた。

　――ご苦労だった。
　――いいえ。
　李斎のいる部屋の外から、声が聞こえた。
　――疲れてはいないか。
　――大丈夫です。
　まさか、この声は。そんなはずは……。でも。
　彼女は跳ね上がるように立ち上がる。弾みで椅子がばたんと床に倒れるが、全く気にかけることなく、扉へ向かって走り出す。力任せに扉を開けるものの開ききるのももどかしく、彼女は隙間に身を滑らせて廊下に躍り出た。まさか。まさか。そう思いながら庭へと向かう。

「李斎は随分慌てているようだな」
「そうですね……」
　この世で最も早い足を持つという霊獣に騎乗してきた驍宗は、正寝を囲む園林に降り立ち、彼を乗せてきた自分の麒麟をねぎらっていた。
　部屋の中からは何かがひっくり返る音が聞こえ、扉を乱暴に開け閉めする音が響く。女のものにしてはやや強い、沓が床を蹴る音がカッカッカッと駆け寄ってくる。
　がしゃーん、と何かが割れる音がした。
「廊下の花瓶にでもぶつかったんでしょうか……」
「そのようだな」
　王と麒麟は、けたたましい物音を撒き散らす女が現われるのを待っていた。
　そして泰麒は思う。今や自分も、王も、この国も階梯を一つ昇ったのだ、と。そしてこの主はこれから、一人の男として駆け寄る女の手をとり、同じく階梯を昇らせようとしているのだ、と。

　赤茶の髪を振り乱した女が、庭へと転がり出てきた。
　園林の樹木の枝には、梅の蕾がふっくらと膨らみ、彼らの再会を優しく見守っていた。