子供の庭

「どうなさいました？」
　翌日の午後、正頼は、泰麒が分厚い本を抱えて自室の入り口に現れたのに気付いた。その姿に一瞬、昨夜の本好きの子供が重なって見えた。
「驍宗様がこの本を読みなさい、と仰って……」
　泰麒は書物を持って正頼の座っていた机までやってきた。
「とても難しい内容なのでしょう？　驍宗様が『この本は、大学を前代未聞の成績で卒業した正頼と一緒でなければ読めないだろう』と言っておられました」
「はあ……この本ですか……」
　古びた表紙のそれは、確かにその難解さで著名な書籍だった。
　――しかし、何故これを今、台輔に？
　もしかしたら。閃くものがあって正頼は泰麒に訊ねた。
「昨日保翠院の子供達に会ってちょっと思い出したのですけれども。台輔がお小さい頃、李斎殿ととても仲がよろしかったですね」
「ええ。だって李斎は優しくて綺麗ですし。驍宗様があんな風だから、僕最初にお会いした頃、李斎の方が王様だったら良かったのに、とまで思ってたんですよ」
　そして、泰麒は小首を傾げて正頼に質問を返した。
「でも、正頼。どうして正頼も驍宗様と同じことを僕に聞くんですか？」
「驍宗様もそんなことをお尋ねでしたか」
「ええ、今朝。僕がそうお返事したらしばらく黙ってらして……。それからこの本を僕に渡されたんです。僕、いつものように李斎のところで一緒に読もうとしたんですけど。驍宗様は、その本は正頼と一緒でないと読めない、ときっぱり仰いました。それでこちらに来たんです。だからしばらくお願いしますね」
　ぷっ――。
　正頼は噴出した。そのまま呵呵と笑いだす。そんな正頼を泰麒は不思議そうな顔で見ている。
「正頼、どうしたの？」
　幼い頃そのままの口調で問う声に、正頼は笑い顔のまま、自分より背の高くなった泰麒を見上げた。
　
　その時、正頼の目にふと幻が浮かんだ。
　鋼色の髪の幼い泰麒が、昨日の子供達と王宮の庭を駆け回ったり玉石を拾い集めたりして楽しく遊んでいる。あの黒い髪の子供と頬を寄せ合って小難しい本を一緒に読んでいる。そしてあの背の高い少女に、二人で競うように纏わりついている。――そんな幻が。
　翻って現実はどうだったか。思い出そうとすると正頼の胸に苦いものがこみ上げてくる。
　泰麒はいつも孤独と不安を背に負って、人気のない庭にぽつんと佇んでいることが多かった。あの頃の王宮では、陰謀とそれに対処する謀略とが、互いが互いの入れ子になっているように複雑に絡み合っていた。人々は相手の行動の裏の裏まで読もうとし、奇妙に捩れた噂がその中を飛び交っていた。あの頃の白圭宮はそんな場所だったのだ。
　――けれども本来、王宮の庭は子供が無邪気に駆け回ることの出来るような、そんなものであるべきだったのではないだろうか。
　勿論、現在のどこの国でも、また歴史上の過去と未来のどんな王朝であっても、王宮が子供のものであるようなところはあり得まい。どの王宮に大人たちの奸計はつきものだ。――しかし。それでも乍王朝の始まりは、もっと別なものであるべきではなかっただろうか。
　緊張に緊張を重ねた結果、乍王朝は獰悪な、あの魔物のような男を産み出してしまったのだ。
　阿選が暴虐の限りを尽くしている間、文官の正頼はただ逃げ回るだけで精一杯だった。最初の頃こそ仲間を募って反撃を狙う気概もあった。しかしその試みが費える度に、自分の気力は削がれていき、状況そのものも悪化していった。
　正頼はひたすら身分を偽った。かつて前代未聞の成績で大学を卒業した自分。それなのに国官ではなく驍宗の私的な軍吏となり、国府中からその進路を惜しまれた自分。にもかかわらず驍宗とともに戴国の中枢にまで昇りつめた自分。そして、逸材中の逸材として、尊き麒麟の養育を任された自分。他人がこの自分に抱く記憶の全てを裏切るように、彼は老い呆けた老人に成り済ました。身元を確かめようとした阿選の手下の前で、馬の糞を口にするという全き痴呆を演じて見せたこともある。
　――いや、私の矜持くらいどうということはないのだ。
　利き腕を失いながら死線を彷徨った李斎に比べれば。己の最後の務めはその命を絶つことだと思い定めてしまった驍宗に比べれば。そして驍宗が復位して少なからぬ年月が経つのに未だ還って来ないあの者達に比べれば。自分の矜持が地に落ち泥にまみれようと何と言うこともない。

「大丈夫？　正頼」
　泰麒が身を屈めて、正頼の顔を覗き込んでいた。正頼が回想に耽っていたのはほんの僅かな間だったらしい。すっかり青年となった泰麒が心配そうに自分を見つめている。
　――そして、台輔は、子供が子供でいられる時間を奪われてしまっていたのだ――。
　昨日の子供達のように過ごす時間が、この方にもあって良かったはずなのに。ご自分の存在の意味など深刻に思い悩まず、もっと他愛もないこと――そう、例えば「自分のお気に入りの女将軍をお嫁にするにはどうしたらいいかしら」とでもいった子供らしい悩みごとだけ、お考えでいらっしゃったら良かったのに。自分達はそうして差し上げるべきだったのに。

「正頼？」
　重ねて問いかける泰麒に、正頼は笑い声を返した。
「あは、あはは……」
「どうしたの？」
　再び笑い出した正頼に、訳の分からない泰麒は問う。
「いやもう……。だって、可笑しくて。驍宗様ったら本当に大人気のない焼き餅を焼かれますねえ。いや、もうお腹の皮が捩れそうでございますよ」
　実際、正頼の腹の底から次から次へと笑いが飛び出してきて止まらない。
「はっはっはっ」
　正頼は腹を抱えて笑いながら、かろうじて言葉を紡ぐ。
「いやあ……、あの驍宗様が、まるで子供に還られたようで……。私はもう可笑しくて可笑しくて……」
　――子供に還る。大きな大きな遠回りをしたその後に――。
「正頼」
「いやいや、もう、あんまり笑うものですから……目から涙が出てきてしまいましたよ」
　正頼は目尻の涙を拭き拭き笑う。いやあ、戴は平和になったのですなあ。そういった意味の言葉を、笑いに喘ぐ中から何度か口にしながら。
「……正頼……」
　泰麒は労わるような声をかけて、自分よりずっと小さくなった正頼の背に手を置き、撫で始めた。
　老人は背を丸め、相変わらず笑い声をたてながら、しばらくのあいだ涙を零し続けていた。