子供の庭

　驍宗が私用を先にしても構わないと判断しただけのことはあり、驍宗と正頼の話は短時間で済んだ。それでも、もう日は暮れかかって辺りは暗い。驍宗の部屋から一歩外に踏み出した正頼の影を、部屋の灯火が石畳に映していた。
　夏に近いため窓も開け放たれており、部屋の丸く穿たれた窓からも光が漏れ出していた。そしてその窓の下に子供が座り込んでいるのを正頼は見つけた。
「おや。まだいらっしゃったのですか？」
　そう口にしてから正頼は自分に苦笑する。相手は保翠院から遊びに来たごく普通の子供なのに。このような丁寧な口調になる必要などないのに。
　子供は慌てて立ち上がった。その拍子にパサッと何かがその子の膝から零れ落ちた。その子供は慌てて拾いなおすと、どこも汚れていないか確かめてからそれを胸に抱きしめた。それは立派な装丁の施された書物だった。
「ごめんなさい」
　幼い口調でその子供が心の底から申し訳無さそうに謝る。
　――ああ、やはり。なんと似ているのだろう。
　黒い髪に黒い瞳。十歳を越えるかどうかという年頃。真摯に見上げてくるその表情。
　――まるであの頃の台輔を目の前にしているような。
「ごめんなさい」
　もう一度謝罪の言葉を口にして、その子供は説明しはじめた。
「あの……図書府でご本をお借りして……。お庭で読んでいたのですけれど辺りが暗くなってきたので……。明るいところを探していたらついこのお部屋の窓の外に長居をしてしまいました。でも。僕は本を読み出したら夢中ですから、中でのお話は聞いていません。ごめんなさい」
「本が好きなのか」
　正頼の後ろにいつのまにか驍宗が立っていた。正頼同様、その子供を見つめる表情にごく微かに苦いものが含まれている。それを見せまいとするかのように、驍宗は静かに笑んで言葉を続けた。
「お前はさっき禁軍の鍛錬場にいなかったか？　あの勇ましい少女に駆け寄っていた……」
　――やはりお気づきでいらっしゃったか。
　正頼は複雑な心境で驍宗の声を聞く。
「はい。彼女がしゃがみこんでしまったので心配で……」
「彼女はどうだった？」
「何もありませんでした。『気が抜けてしまったんだ』と苦笑いしていました」
　それからその子供は少し心配そうな顔をして驍宗に質問した。
「あのう。彼女をお叱りでいらっしゃいましたけれど……。それで彼女が禁軍に入れないなんてことはありませんか？」
　恐る恐る真剣に幼い質問をする様子は、泰麒の稚かった時にたいそう似ていた。
「それはない。安心してもいい」
　驍宗の言葉に、子供はぱあっと顔を輝かせる。つられるように大人二人も微笑む。
「彼女と仲がいいのか？」
「はい。……といっても今は僕が彼女に守られてばっかりなんですけれども」
　驍宗はその言葉を噛み締めるかのような間をあけた。それから話題を変えるように、子供がしっかり胸に抱きしめている書物を指差した。
「随分難しいものを読んでいるようだな。内容はわかるか」
「少し難しいです。でも僕、保翠院でもいっぱい勉強していますから、頑張っていつかはこのご本も読めるようになりたいです」
「それが読めれば大学にも入れるだろう」
「本当ですか！」
　男の子は心の底から嬉しそうな顔をする。
　――台輔がこのようなお顔をなさったのは数える程しかなかった……。
　正頼はそう思いながら、この子の笑顔をもっと見ていたい気になり、子供の気持ちが引き立つようなことを言ってみた。
「大学に入って官吏として働きたいのですか？　お国を大切に思っているのですね。感心なことです」
　身分の高そうな――王様の傍にいるのだから――年配の男性に丁寧な口調で対されて、その子供はちょっと居心地の悪そうな顔をする。
「あの……。お国のお役に立てたらいいなっていうのもあるんですけれど……」
　その子は急に含羞む口ぶりになった。
「本当はさっきの彼女のためなんです」
「ほう？」
　驍宗に先を促されて、子供は話し続ける。
「いつも僕は彼女に守ってもらっていて……。確かに彼女が強いからなんですけど。あ、でも彼女は武芸だけじゃないんですよ。お勉強も頑張ってはいるんです、劉将軍のようになるんだって言って」
「劉将軍になるのにご本を読んで勉強するのですか？」
　正頼の問いにも子供は淀みなく答える。
「ええ。文武両道で鋼の心の劉将軍みたいな優れた人間になりたい、って。それはもう、一生懸命なんです」
　――確かに李斎殿は立派な方だが。そのような評価は少々実像からはずれているような。少なくとも書物を読むのは得手な方ではないのだが……。
　と正頼は内心首を傾げたが、いやいやと思い直した。世間の評判の中で英雄というのはえてして万能とされるもの。それを目標に少年少女が奮起するなら結構なことだ。驍宗も同じことを考えているのか、子供の幻想に口を挟まなかった。
「でも、彼女は何でもできるわけじゃなくて。本を読むのは苦手で時々居眠りなんかしてたりします。それに辛いことが続くようなことがあると、やっぱり落ち込むこともあるんです。あ、それから。あんまり強くなってしまうとお嫁にいけないかも、なんてことも悩んでいるんですよ。だから僕……」
　ここで子供は大人達を見上げて力強く宣言した。
「僕、いっぱい勉強しようと思うんです」
　――台輔に似て賢そうな子ですが、自分の話が飛躍しているのには気が付いていないようですね。
　正頼は膝を折って屈み、そうやって子供に目線を合わせてやりながら訊ねた。
「あの少女が悩むのと、貴方がたくさんお勉強するのと何の繋がりがあるのですか？」
「あの……。僕いっぱい勉強して、そして立派な官人になって。そして彼女は禁軍で働いて。一緒に雲海上で働いていて、僕が優秀な官吏だったらきっと僕のこと頼りにしてくれると思うんです。そしたら……」
　子供は俯き、耳たぶまで赤く染めて照れながら加えた。
「そしたら僕……彼女をお嫁さんに出来るかな……って。そう思うんです」
「年齢が離れているだろう」
　すかさず厳しい声が正頼と子供の頭上から落ちてきた。これまでとは全く違う驍宗の声音に子供は怯えた顔をする。正頼は驍宗からは自分の顔が見えないのをいいことに、心の底からの笑顔を子供に見せてやった。それで少しは安心したのか、子供は自分の思うところをおずおずと口にだす。
「あのう。でも……。今は彼女が十六歳で僕が十歳ですから随分年齢が違って見えますけれども……。例えば十年経てば二十六と二十ですよね」
「それくらいの年回りでしたら、婚姻してもおかしくありませんね」
　正頼が加勢する。
「ええ。それに彼女はきっと将軍になると思うんです。そしたら昇仙しますよね」
「そうそう。それからしばらく経てば、ますます似合いの年頃になりますなあ」
　正頼は大きく笑いながら、子供の前に膝をついたまま驍宗の顔を見上げた。驍宗は部屋の明かりを背にして立っているため、その表情は残念なことに影に入ってしまって見えない。けれど、正頼には驍宗がどのような顔をしているか容易に想像できた。
　――きっと一応無表情な顔を拵えてはおられるでしょうけど。
　正頼は面白くてたまらない。
　――不機嫌なのは隠し切れていないでしょうねえ。
　事実、驍宗は一言、
「お前はどうもませている」
　とだけ言い捨てて、ぷいっと部屋の中へ戻っていってしまった。
「あの……」
　子供はさすがに顔色ない。
「大丈夫ですよ」
　昔稚かった台輔にそうしたように、正頼は子供の片方の手をとった。そうして立ち上がる。子供が不安げに見上げる様子を懐かしく感じながら繰り返してやる。
「大丈夫ですとも」
「僕……大学に入れなくなったりしませんか」
「心配なく。そんなことはないでしょうし、もしそんなことになりそうなら私がちゃんと主上をお諌めしますよ」
　それでも一国の王を怒らせてしまった不安は消えないらしい。
「さあ、そんな心配そうな顔をしないで。貴方のすることはたくさんお勉強することです。そして大学に入って、官人になって、そしてあの娘と婚姻して。いやあ、先が楽しみですねえ。頑張ってくださいまし」
　正頼はその子供の手を引いて歩き出した。もう保翠院の子供はみんな集まって下山する頃だった。子供を連れて歩きながら、正頼は繰り返し同じことを言ってきかせた。