桜花の散

　しばしの沈黙の後、泰麒は口を開いた。
「驍宗様もやはり五百年生きておられるようになれば、同じようなことを思われるのでしょうか……」
「いや、それはないな」
　延麒は即座に否定した。
「泰王も器は大きいが、傑出はしてても屈折はしてないからな。それに『滅ぼしてみたくなる』なんてふざけたことを言いだそうもんなら、李斎にぶっとばされるぞ。神たる西王母さえも言い負かした女にな」
　延麒の言葉に、泰麒はほっと笑んだ。延麒は、あーあと言いながら天を仰ぐ。
「李斎みたいな普通の女が側についててくれれば、尚隆にも安心できるんだけどなあ」
　泰麒は少しばかりムッとした声で応じた。
「李斎は普通なんかじゃないですよ。普通の人間ならとてもできないことを成し遂げたんですから」
「ああ、確かに李斎は戴の『救国の女英雄』だ。だが、それも李斎がある意味これ以上ないほど『普通』だからできたことでもあるんだ」
「……？」
「李斎は最初、戴のために慶を沈めようとした――ああ、そんな顔をするなよ、俺、今李斎を責めてるわけじゃないから」
　李斎が景王に覿面の罪を唆しかけたのは事実で、そこを突かれると泰麒も辛い。そんな泰麒に、延麒はなだめるような声で言う。
「仕方ないだろう、当時の戴で生きていた者なら。そう、あれだけ厳しい状況におかれれば、自分たちさえ助かれば他人はどうでもいいと思ってしまうだろう。それだけ追いつめられていたってことだし、普通の人間は追いつめられると一層愚かになるもんだ。李斎だけが悪いんじゃない。李斎は『普通』なだけけなんだよ」
「ええ……」
「そして陽子と知り合って李斎は改心した。これだって『普通』だ。まともな人間なら誼のできた人間を踏み台にしようと思わないさ。李斎は普通でまともだよ。民を愛する気持ちも、逆賊に対する怒りも、その民の為に他国を犠牲にしてでもと思いつめてしまうところも、それでも誼ある人間を利用できないと改悛するのも、全部普通の人間らしい感情だ」
　だから、と延麒は続けた。
「李斎の声は民の声だ。だから陽子をはじめ他の国の王も、碧霞玄君も、西王母も李斎の声を聞いたんだ。聞かずにはおれなかったんだ、李斎の叫びは民の叫びだったんだから」
「……そうですね」
「李斎が普通じゃないのは、普通の民の叫びを、たとえ碧霞玄君や神たる西王母に対してさえもぶつけてみせる度胸だな。これは普通じゃできない。俺みたいな麒麟だって無理だ」
　なあ、と言いながら延麒は笑いかけ、泰麒もつられて笑った。けれども延麒はその笑みをひっこめて真顔に戻る。
「大王朝っていうなら奏がある。あそこの王はごく普通のおやじさんらしい。尚隆もそんな風なら、俺も安心できる。でも俺は不安だ。尚隆は普通じゃないからだ」
「驍宗様も尋常な方ではありません」
「ああ、確かに泰王も普通じゃない。でも泰王は普通の女を、これ以上ないほど普通の女を側に迎える。普通の民の声を、普通じゃない迫力で聞かせる者が側にいる。だから泰王はきっと大丈夫だ」
「そうですか」
「尚隆にもそういう嫁さんがいればなあ。あいつの恋心が実ってくれれば良かったんだが……」
　延麒は頭上から自分に近づく一枚の花びらを目で追いながら嘆息した。咲き誇る満開の桜から、初めて地に降る一枚だった。