桜花の散

　ここで、ふと思いついたという調子で泰麒が尋ねた。
「そういえば、延王はご結婚なさらないんですか？」
　延麒は何かにけつまずきでもしたかのような顔をした。
「へ？　結婚？」
「ええ、五百年の間にそういうお話はなかったんですか？」
　うーむ、と言いつつ延麒は腕を組んだ。
「蓬莱では一応居るにはいたんだ、嫁さんが」
「では、その女性が忘れられなくて今も独身でいらっしゃる……」
「ああ、それはないない。そんな殊勝な奴じゃねえよ、尚隆は。それにその結婚というのがちょっと訳ありでなあ……」
　延麒は、頭上に広がる桜の枝を見上げ、ため息交じりに言った。
「若い頃、こっちの王になる前にもういろいろあったからなあ。その上何百年と生きていれば、さらにいろいろねじまがっても仕方ないか」
「延王はごく真っ直ぐなご気性のように思いますけど？」
「いや、あいつは一筋縄ではいかねえんだ。そうだなあ、嫁さんがいれば俺も少しは安心できるんだがなあ。李斎が現れたときには、ひょっとしたらいい線いくかも、と期待したんだけどな」
「李斎ですか？」
　泰麒は眉間に縦皺を寄せる。
「まあ、そんな顔をするなよ。李斎は明日には驍宗の嫁さんになるんだからさ。今はただ尚隆の好みの話しをしているんだ。李斎ってあいつの好みだと思うんだよな」
「李斎のどういうところがですか？　延王にとっては」
「自分で運命を切り開いていこうとする強さ、かな。これは陽子も同じだ」
「中島さんも？」
「もし陽子がなよなよした女で、べそをかきながら『私は王なのに玉座に座れません。助けて下さい』と縋りついてくるような娘だったら、尚隆はあんなにお節介をやいていないさ。あいつはきりっとした女が好みなんだよ。もっとも陽子の場合は年が若すぎるし、他国の王だからな。だけど李斎となら、ってちょっと期待したんだ」
　主の妻に余計な好意を持たれては困る泰麒は、現代蓬莱の価値観を持ちだす。
「結婚だけが幸せじゃないですよ。結婚しなくたって幸せな人はたくさんいます」
　延麒はからからと笑った。
「おいおい、お前、尚隆に嫁さんが来て欲しいのか欲しくないのかどっちなんだよ」
　泰麒も苦笑いしつつ答えた。
「結婚するなら李斎以外と。僕の願いはそれだけですね。一般論なら結婚なんてしてもしなくてもどちらでもいいと思いますよ、僕は」
「……俺は尚隆に嫁さんがいて欲しいと思ってる」
　今までとは全く違う、真面目な声でそう言うと、延麒は桜を再び見上げた。
「あいつは、上手いことやりすぎるんだよなあ。ちゃらんぽらんに見えてきっちり善政をしいている。雁の国はあいつの采配で五百年栄え続けて来た」
　延麒の見上げる桜には一つの蕾も残っていない。全てが見事に咲き揃っている。あとは散るのを待つばかりだ、とでもいうように。
「桜でいうと、五百年間咲かせっぱなしにしてきたようなもんだ」
「延王は希代の名君でいらっしゃいますものね」
　延麒は軽く首を振った。
「五百年は長すぎる……。なあ、桜の花はいつか散るから美しいんじゃないのか？」
「え？　ええ、まあ、そういう面もあるかもしれませんね」
「それでさ、人生も同じなんじゃないか。人は自分がいつか死ぬとわかっているから、今生きているのを頑張ろうって思うもんなんじゃないのか」
「そうかもしれません」
「ところが、こっちの世界じゃ王は死なない。俺たち麒麟もうまいこといけば死なない。ただ俺たちは霊獣だそうだから、そうだと言われればそうかと思うだけだけどさ。けど、ただ普通の人間として生きてきた人間が、永遠の命を生きることになったらどう思うのかな」
「さあ……」
「生き飽きた、って思う時も来ると思うんだ。そして、そんな時あいつはとんでもないことをしそうな気がする」
「とんでもないこと？」
「俺は、あいつのことを、何だかんだ言ってても器の大きな奴だと思ってる。でもな、その分得体の知れないものも感じるんだ。思いつく時には、常人では考えつかない、空恐ろしいことを思いつく。そんな気がする。例えば――雁を滅ぼしてみようと思い立つとか」
「まさか」
　泰麒は笑ってみせた。王が国を滅ぼそうとするなんて決してあり得ないと思ってのことだった。だが延麒は真剣な表情を崩さない。
「いや、その『まさか』だよ。現に俺はあいつの部屋の片隅で碁石を見つけた」
「……碁石が何か？」
「あいつは碁がからきし駄目なんだ。そんなあいつが一時期、そうだな大体二百年程前、やたらと人を捕まえては碁に興じていた頃があった」
「……？」
「あいつは何か賭けでもしてたんじゃないか。例えば、珍しく自分が碁に勝てば、碁石を一つ取っておく。で、それがきりのいい数になれば雁を滅ぼしにかかる……」
「……まさか、そんなことを……」
　泰麒は再び「まさか」としか応じることが出来なかった。しかし、今度は笑みを浮かべることができなかった。
　延麒がこうも本気で話す以上、少なくとも延麒は延王の行為に危険なものを感じたのだろう。麒麟は王の半身だ。麒麟の直感を軽く見てはならない。
「でも、まさか……」
　三度目の「まさか」を弱々しく呟くと、泰麒は目を伏せて黙り込んでしまった。