緑柱の女

「あのさ、李斎……少しは落ち着こうぜ」
「……私は落ち着いておりますが？」
　――嘘を付け。延麒はため息をつく。
「なあ、そう何度も窓の外を見てたら、余計苛々すると思うんだけどな。もう少し、もう少ししたらあの二人も帰って来るからさ。落ち着こうよ」
「……どうかお気遣いなく。……私は月を見ているだけでございますから」
「月ぃ？」
「今夜は美しい月が出ておりますから」
「……美しいかあ？　三日月でも満月でもない中途半端な形だぜ、今夜は」
「……でも……こちらは戴より南で湿度が高いぶん、月が少し朧で風情がございます」
「へえ……」
　李斎ってこんな風流なことを言う性質だったっけ。首を傾げる延麒の横で李斎は拳を握り締める。月が朧だ――これは夫が言っていたのだ。昨夜、夫婦の睦言の中で。もしや――もしや夫は今頃同じことを他の女の耳元で囁いているのではないだろうか。――ああ、こんなに夜が更けているのに夫は帰ってこない。一体今は何時なのだろう。月はどれだけ動いているのだろう。
　李斎は乱暴に立ち上がって窓へ向かう。その後ろで延麒が文字通り頭を抱えている。李斎の拳はあまりに力が込められていて、関節の辺りが白くなっているのに彼は気が付いていた。
　――あああ、尚隆の馬鹿野郎。新婚夫婦の夫を夜遊びに誘う馬鹿が一体どこにいるって言うんだよ。早く帰って来てくれよ。
「お戻りになりました」
　使令がいち早く延王と驍宗の帰還を知らせてくれたとき、延麒は心の底からホッとした。
「李斎、帰ってきたぞ」
　李斎に一声掛けると延麒は李斎より先になるよう走り出す。李斎の方も大股で足早だから、これは中々大変だ。でも。どんな馬鹿でも尚隆は一応俺の主だからな。いきなり殴られるのは止めてやらないと。

「あーあ」
　息せき切って延麒と李斎が門まで駆けつけると、驍宗が酔いつぶれた延王を背負って立っていた。
「何だってこんなになるまで飲んでんだよ」
「私が賭けにお誘い申し上げた」
「？」
　驍宗が説明する。
「賭けをして、負けたほうが杯を干す。そうしていたら、あっという間に酔ってしまわれた。……延王は随分賭けにお弱いようだ」
「ああ、こいつは賭け事はからっきし駄目なんだよ。全くもう。……しょうがねえなあ」
　延麒は使令を呼び出し延王を運ばせる。
「悪かったな。新婚ほやほやだって言うのに。あ、李斎。仲良く、仲良くしてくれよ。頼むから玄英宮で初の夫婦喧嘩なんかしないでくれよな。な？」
　李斎は無言だった。でもなあ。延麒は気がかりだったが二人を置いて立ち去ることにした。夫婦喧嘩は犬も食わないっていうんだっけ。まあ、何とかうまくやってくれ、驍宗。彼は心の中でそう呟いた。

「李斎」
　驍宗の呼びかけに答えることなく、李斎は踵を返し彼に背を向けて歩き始めた。無言の彼女は、彼にとって誰か知らない別の女のように思われた。そして、明かりの陰に入り暗闇に紛れた彼女の髪は、普段の赤茶ではなく深い緑色に見えた。
「李斎っ」
　彼は腕を伸ばして後ろから彼女を強く抱きしめた。そして真剣な顔で彼女のうなじに囁く。
「お前はどこにも行くな。どこにも行ってはならない」
　突然、水面をはぜる魚のように、長い髪が跳ねた。
　――くるり。
　李斎は驍宗に向き直る。
「私はどこにも行っておりませんっ」
　怒鳴り声だった。声の大きさを加減することをすっかり忘れてしまっているらしい。
「どこかへっ、お出かけだったのはっ、主上の方でっ、ございましょうっ」
　一言一言、ちぎって投げつけるように彼女は叫ぶ。肩で息をしながら、ぎゅうっと唇を噛み締め、眼をらんらんと怒らせているのが暗い中でもわかる。くるっと再び彼女は彼に背を向け歩き出した。かつーん、かつーんと沓を地面に叩きつける音が響く。

　ふふっ……、と驍宗は笑い出した。李斎が睨みつけたのですぐ押し殺してしまったが。大丈夫だ。彼は思う。大丈夫だ、この女は。この女にあの女のような儚さなど微塵もないではないか。
　彼の妻は、武人時代の名残で背筋をぴんと伸ばして歩いていく。筋肉は落ちたが、骨格自体が女性にしては逞しい体つきだ。そして――夏の夜だというのに、彼女の身体からは湯気が立ち上っているかのようだ。
　かんかんに怒っているな――。そう、この女はこんなにも活気に満ちている。この女が大人しく私を残して去っていくことなどありはすまい。驍宗は李斎に気付かれぬよう笑い続ける。
　そうだ。驍宗は更に楽しいことを思いついた。延王には申し訳ないが、鴻基の賭場の件は無期限延期だ。そんなものを作ったら、付き合わされるのは目に見えている。美姫を侍らせるだと？　とんでもない話だ。そんな所に出かけていったら李斎がどれほど怒り狂うかわからない。
　延王には、明日の朝一番にそう言おう。それも李斎の口から直接言わせるのだ。二日酔いの頭に李斎の怒鳴り声はさぞ響くことだろうが――ま、自業自得というものだ。そもそも、余所の国の女、よりによって私の李斎にちょっかいを掛けようとしたあの男が悪い。
　ふと気付くと李斎が立ち止まってじとっと彼を睨んでいた。口元に笑みを残したまま驍宗も同じく立ち止まる。李斎はそんな驍宗に向かって妙に低い声で訊ねた。
「妓楼というのは、かように楽しいところでございましたか？」
「いや、そういう訳では……」
　驍宗は楽しい空想を引っ込め、彼の愛妻の機嫌をなおすことに専念し始めた。
　
　三日月でも満月でもない中途半端な形の月が、下界の騒ぎなどそ知らぬ顔で夏の夜の空で朧に光っていた。