緑柱の女

　ちりん、と玻璃の器が鳴った。鬱陶しいほど飾りをつけた妓女が彼の杯に冷酒を注ごうとしていた。延王は妓女の一人に膝枕をさせ、気持ち良さそうに転寝している。
　涼しげにゆれる杯の中の水面を見ながら、驍宗は考える。私はあの女に恋をしていたのだろうか、と。けれどもはっきりした答えは見つからなかった。何しろ共に過ごした時間が短かった。そして自分はまだ余りにも若かった。自分の心にあるものが恋かどうかわからなかった。それを知る前に彼女は逝ってしまったのだ。
　そして、自分は亡き者を偲んで悲しみに暮れるより、死に追いやったものに怒り、そこから自らの野心を育てた。そう、それほどまでに自分は若かったのだ。
　ただ、今の彼にははっきりとわかることがある。あの女は彼に恋をしていたのだ、と。恋を経た今の彼にはそれが分かる。あの女は化け物と指さされて呼ばれる少年を心から哀れに思ったのだ。そして妓女である自分の恋など適わないことを知っていた。「牀榻に決まりがあるなんて寂しい」。彼女はそう繰り返した。妓女から口づけてはならない、という決まりを破ることで彼女は自分の運命にささやかな抵抗をしていたのだ――、と。
　あれから彼は数多くの女を知った。野心を持った彼はめきめき頭角を表し、それにつれて群がってくる女も多かった。彼は上官の忠告どおり、人づきあいをよくするよう心がけていた。だから、女達の誘いも気が向けば応じてやった。
　けれども、女達はあれほどあの手この手で彼を誘うのに、いざ二人きりになると必ず男の方から口づけてくれるようせがむ。女という生き物はつまらない――彼はそう思っていた。件の先輩が酒席で言ったように彼はすぐ女の扱いも上手くなった。武具や騎獣を扱うのと同様に。しかし、彼自身は女に飽き飽きしていたのだった。
　そう、彼女に出会うまでは。あの、夏の太陽のように強く、活き活きとした彼女。見事昇山を果たすほど勇敢で、慈悲の生き物を懐かせてしまうほど優しい微笑をした彼女。彼に媚びるところなど全く無い一方で、素直に、いくつもの感情の襞を見せてくれる魅惑的なまでに瑞々しいあの女に会うまでは。
　そう言えば。彼は含んでいた酒をぷっと吹き出してしまった。彼女――、現在の彼の新妻もまた、初めての口づけを彼に許さなかった。突然彼女の方が彼の唇を奪っていったのだ。それも眦を決して、大真面目な顔をして。
　彼は酒盃を持ったままくつくつと笑う。あの時の彼女は自分から唐突に唇を重ねておきながら、すぐに顔を離すと彼をきょとんと見つめた。あの表情といったら。彼の肩の震えは止まらない。
　ひとしきり一人で笑った後だった。彼の中を一陣の風が過ぎていったのは。それは、あの時あの墓地で彼の心の中を通り過ぎていった寒々とした風に似ていた。
　――会いたい。心中の寒さをねじ伏せるように熱いものが彼の中に込み上げて来る。今すぐ会いたい。会って確かめたい。妻の活き活きした姿を。健康的なあの肢体を。温かいあの微笑を。
　それにはまず――。彼は延王を見た。まずこの男を何とかしなくては。
「風漢殿、風漢殿」
　彼は延王を揺り起こす。
「んあ？」
「賭けをしませんか？　風漢殿」