緑柱の女

　それから彼はその妓楼に通うようになった。件の先輩だけでなく、他の先輩や同僚、部下がその妓楼に行くと言えば、彼も必ずついていった。そして毎回、あの深緑の髪の女と牀榻で過ごした。
「どうして口づけない？」
　ある夜、驍宗が少々不満そうな声で訊ねた。それまでいつも彼女のほうから口づけるのにその夜はそれがなかったのだ。女は少し驚いた顔をし、それから苦笑を浮かべて答えた。
「妓楼ではね、妓女から客に口づけてはいけないの。本当は」
「牀榻の中に決まりはない、そう言っていなかったか？」
　驍宗の顔を、女は少し悲しげな表情で暫く見つめていた。そして、視線を床に逸らして呟くように言った。
「そうね。牀榻の中に決まりはないわ。そんなの寂しすぎるもの」
　それから再び驍宗を見つめ、顔を寄せて自分から唇を重ねた。
　別の夜、彼女が驍宗に小さな袋を取り出して見せたことがある。
「若い頃にね、買ったものなの。貴方の眼のようでしょう？」
　その黒い小さな布袋に入っていたのは、こういったことに詳しくない驍宗でも分るほど安っぽい、紅玉で出来た指輪だった。そう言えば彼女は他の妓女と違い飾りらしい飾りをつけていない。それで彼女は地味で目立たない、そして少女のような雰囲気をしているのだな、と驍宗は思った。
「今度、給料が出たら何か飾りを買ってやろう」
　彼はそう言った。緑色の髪を一房手に取りながら。
「そうだな。もう少し深みのある赤ならこの髪にも合う。そんな髪飾りを探しておこう」
　彼女は、彼が見た中で最も華やかな笑顔を彼に向けた。彼はそんな彼女の笑顔に満足すると、彼女を抱き取り手慣れた動作で組み敷いた。

　彼女との別離はあっけなかった。
　しばらく彼は忙しくしていて妓楼へ向かう暇がなかった。
この冬、鴻基の北方で発生した流行り病がとうとう首都にまで到来し、次々と死者が出ていた。軍の仕事は戦闘だけではない。治安維持や土木作業も含まれる。病が流行ると、病人が居る家を狙った盗賊が横行したし、死者数が増えるにつれ弔う人手も足りなくなる。彼の率いる部隊も、夜警に当たったり死体を運んで穴に埋めたりと何かとかりだされていた。
　久しぶりの休暇に、彼はまだ日が暮れていないのに一人でその妓楼に出かけた。彼女は出てこず妓楼の主人が出てきた。
「お客様、申し訳ございませんが……」
　主人は気の毒そうに驍宗に言った。
「あの女は夕べ死にました。流行り病で」
　驍宗は絶句した。
「今朝、西の街外れの墓地に埋めてきたところです」
　驍宗は身を翻して駆け出した。何故だ。何故――。彼の頭の中をこの言葉が吹き荒れる。
　墓地に到着して彼は立ち竦んだ。広大な荒地に、一面にひろがる墓標の群れ。吹きつける北風。彼を見ている黒い烏達。
　――ここに、あの女が？
　何故。と彼は繰り返した。実際はそうではないのだが、彼は初めて人の死に直面したような気がしていた。あの女は死んだ。この群れなす墓標のどれかの下で眠っているのだ。しかし、彼は未だその事実を受け入れられない。
　小さな黒い袋が目に入った。少し離れたところに突き刺さっている墓標に架けられたものだった。あれは――。彼は駆け寄った。その袋は、彼女が以前彼に見せてくれたものだった。中身を改めると、あの安物の紅い指輪がころりと彼の手のひらに転げ出た。彼は無言で、自分の掌中の紅い指輪を食い入るように見つめていた。
　しばらくたって、彼は目を上げた。その紅い眼は強い怒りに燃えていた。
　――何故だ。何故あの女が死ななければならない？
　心の中で彼は吼えていた。確かにあの女は儚げなところがあった。肩も腰も足もどこもかしこも細かった。ちゃんと食事を摂っているのかと詳しく訊ねたことがある。彼は彼女に与えられている食事が随分と貧相なのを気に留めた。けれども、彼女は言った。これでも家族と暮らしていた頃よりましな食事なのだ、と。確かに、それほど貧しくなければ彼女が妓楼に売られることもなかっただろう。
　妓楼だって客は多かったが、さほど儲かっているわけではなさそうだった。客の方も大して金持ちが多いわけでないから店に落とす金額も知れている。妓楼の主人が特別吝嗇なようには見えなかった。別に妓女達の食事をわざと貧しくしているわけではなかった。そう、戴は全体に貧しい国なのだ。
　けれども――、せめて食事だけでももう少し滋養のあるものだったなら、あの女も流行り病などで命を落とさずにすんだのではなかったか。
　――何故だ？
　彼は鴻基の中心部を振り返る。現在の王の治世が始まったころは戴もそれなりに豊かだったと聞いている。戴は玉を産出し、これをうまく管理していればそうそう貧しくなるはずはないのだ。彼は唇を噛み、凌雲山の頂に向けて眼を上げ睨みつける。王の放蕩さえなければ、戴はここまで貧しくなることはなかったはずだ。
　それに――。彼は考える。病が流行った時点で手を打つ事だってできた。発生した時点でその地域を封鎖し、瘍医や薬をそこに集中的に投下すれば被害は最小限に食い止められたはずだ。それから、奏には官立の病院と呼ばれる施設があると聞く。それが戴にもあったなら。ならば私が彼女をそこに連れて行ってやることもできたかもしれないのに。
　――王は一体何をしている？
　彼は女の指輪ごと拳をぎゅっと固く握り締めた。そして、ゆっくりと鴻基の街へ歩き出す。一歩ごとに彼の思考は決意へと変わっていく。これは王の失政だ。あの女は本来死ななくても良かったはずなのだ。――もし、自分が為政者ならこんな国などつくらない。貧しさの中で人々がこんなにあっけなく死んでいくような国など絶対につくらない。
　彼は故郷の寒村に居場所がなかったから禁軍に入った。禁軍に入ってからは特に目的もなく自分の能力を開花させる楽しみに耽っていた。しかし、今彼には進むべき道が見えた。まずは、禁軍将軍。この地位に上れば王の重臣として政に参加できる。無能な王に代わって、民のために出来ることをやってやる。
　そして、それから――。彼は自分の中に野心が湧き上がり、形をもって固まっていくのを感じていた。吹きすさぶ風の冷たさなど今はもう全く感じなかった。彼は燃えるように苛烈な瞳で前方をひたと見据えながら歩き続けた。鴻基の中心へ、そしてやがては蓬山へと続く道を。