緑柱の女

　あれは驍宗が禁軍に一兵卒として入ってから二、三年経った頃だと思う。彼はたったそれだけの間に、部下を持つ伍長の立場となっていた。
　戴の冬は厳しい。寒風は肌を切り裂くようで、冷気は突き刺さるように痛い。何もかも凍りつくような寒さの中にいれば、心までも凍えてしまいそうになる。
　軍の兵舎などむさくるしい場所で寝起きする禁軍の兵士達の中には、心身とも暖が取れる場を求めて妓楼へ通う者が身分の上下を問わず多かった。
　驍宗はそんな周囲に全く無関心だった。寒村での貧しかった家に比べれば、兵舎のつくりはしっかりしたものでさほど寒いと思わなかった。空いた時間も、禁軍に入って初めて眼にする武具や騎獣を眺めたり、それらについて詳しい者に教えをこうたり、文献を調べていたりしていればあっという間に時間は過ぎた。だから周りから変人扱いされようとも、彼は上司や仲間と連れ立って外に遊びに行くということをしなかった。
「もう少し周囲に溶け込む努力をしてはどうか」
　ある日、驍宗は直属の上官に呼び出され単刀直入に忠告された。
「禁軍に入って少ししか経っていないお前を伍長に就けるかどうか、我々の間でも意見が分かれた。お前が極めて優秀であることは誰も異論はない。しかし、経験の浅さ以外にも、お前に部下を持つ立場を与えるべきかどうか不安に思う声があった。……実は私も心配している」
「………………」
　驍宗は無表情だった。ふう、とため息をついて上官は続ける。
「お前は軍の生活が楽しいのだろう。水を得た魚のように活き活きしているのは見ていて分る。ただ、誰もがお前のように武人としての生活を楽しんでいるとは限らないのだ。家族を養うために仕方なく軍で生活している者もいるし、基本的に武人を志す者でもたまには息を抜きたいこともある」
　上官は少し言いにくそうに、間を空けて続けた。
「お前は少々周囲から浮き上がっている。不気味だ、とさえ陰で言う者までいる始末だ。その紅い眼のせいもあるかもしれん。がしかし、やはりお前の態度に因る所が大きいと思う。もう少し他人に心を開いて話す機会を増やしてみてはどうか。たまにでいいから、他人が外へ遊びに繰り出すのにも付き合ってやれ」
　上官は、依然無表情の驍宗が気を悪くしているとでも思ったのかこう付け加えた。
「お前が一兵卒なら私も何も言わない。けれども、お前はとうてい一兵卒で終わる人間ではない。お前なら、ある面だけなら禁軍将軍の地位だって夢ではない。ただ、将というのは人の上に立つもの。部下や同輩と気持ちを通じていなければならないし、不気味だ、などと疎まれていては勤まらぬ。私はお前を見込んでいるからこのようなことを言うのだ。わかったか」
「はい」
　驍宗は相変わらず無表情だったが、納得した様子ではあった。上官は一応安堵して彼を部屋から下がらせた。
　その夜。驍宗は先輩から妓楼へ行こうと誘われた。驍宗にそんな誘いを持ちかける者など絶えて久しかったから、こちらも上官に言い含められてのことだろうと彼は察した。
「お供しましょう。……喜んで」
　驍宗の答えに相手は安心した様子で笑った。

　連れて行かれた妓楼は鴻基の中では大きいものだったと思う。もっともこの関弓のきらびやかな楼閣に比べればお粗末なものだった。設えは安っぽく、女達の衣も質素なものだった。それでも妓楼特有の華やぎはあり、侘しい男達の心を浮き立たせるのに十分だった。
　端正な顔立ちに精悍な体つきの驍宗はここでも妓女達の関心を強く惹いた。きゃあ、と嬌声も上がった。しかしながら他の男達と違って、やに下がった顔を浮かべないどころか、どこか冷たい眼差しで周囲を観察しているような様子の彼に、無邪気にしなだれかかってくる妓女は居なかった。
「何だ。怖いのか？　驍宗は強面だからな」
　驍宗をここにつれてきた先輩が妓女達に磊落に声を掛けた。
「お前達、この男は妓楼へ来るのは初めてなのだぞ。さあ、もっと優しく相手をしてやらんか」
　今度は驍宗に笑いかける。
「驍宗。お前ももう少し柔らかな顔を浮かべてやれ。ここは部下を鍛える場所ではないんだぞ。女達をかわいがる場所だ」
　驍宗の苦笑に少しだけ雰囲気がほころび、何人かの妓女が彼を取り囲んで熱くした酒を杯に注ぎ始めた。
　上官が驍宗を誘うよう見込んだだけあって、この男はなかなか大らかな性格のようだった。よく飲みよく喋る。そのついでにこんなことまで話題に出してしまった。
「この男は落ち着いて見えるが本当は随分若いのだぞ。なあ、驍宗、お前は女を抱いたことはまだないんだろう？」
「まあ」
　妓女達が口元に袖を持ってきて微笑む。けして嘲笑ではない。言われてみれば少年の面影すらまだ残しているのにこうも落ち着き払った男の未経験が、可愛らしいと思われてのことだった。もっとも、驍宗が一瞥しただけで妓女達は気まずそうにその笑顔を引っ込めてしまったが。
「ありません」
　驍宗は無表情で答えた。妓女達と違って彼の愛想の無さに慣れっこの男は構わず続ける。
「なに、お前のことだ。どうせすぐこっちの方も上達するさ。こいつはな――」
　驍宗を指差し妓女達に話しかける。
「まるで化け物のような男だぞ。初めて手に取る武具でも、初めて跨る騎獣でもすぐに使いこなしてしまう。なんだって上達がやたら早いのだ。もう優秀すぎてな。人間ではないのではないかと思ってしまうほどだ」
　――陰で、あいつは人妖と人間との間にできた子ではないのか、不気味な奴だ、とまで言う者さえいるのだぞ――
　男がここまで口を滑らせたとき、今まで驍宗に背を向けていた一人の女が驍宗の方を振り向いた。地味で目立たない、深緑色の髪に黒曜石のような瞳をした女だった。その女は何か痛ましいものを見るかのように驍宗を見つめた。驍宗がじっと女を見つめ返す。しかしその女は視線を逸らさなかった。
　さすがに言葉が過ぎたと男は思ったらしい。少々強引に驍宗の出身地のことなどに話題を持っていき、しきりと杯を重ねた。そしてややあってから、そそくさとこう言った。
「おお、夜も随分更けたな。もう寝る時間だ。さあ驍宗、お前はどの女にする？」
　驍宗は黙って深緑の髪の女を指差した。

　女が先に房室に入り、灯りをともした。驍宗が大またで牀榻へ歩み寄る。小さな灯りで壁に大きな影ができ、そして消えた。驍宗は牀榻に腰掛けるなり両手を挙げて仰向けに寝そべってしまっていた。
「退屈なものだな。妓楼というものは」
　天井を見ながらそう言う彼に、女は静かに笑んだ。そして彼女も牀榻の上、彼の隣にそっと腰を下ろした。
　驍宗は二人だけになって初めて彼女を見た。彼女もじっと彼を見つめていた。こうして見ると彼女は妓女達の中では年上の方に入るようだった。ただ余り婀娜めいたところはなく、どこか物静かな少女を思わせる雰囲気があった。
驍宗は素直に訊ねた。
「それで？　私は何をすればいいのだろう？」
　女は二度微笑んだ。一度目は彼の素直な問いについつられてつい噴出してしまった笑みだった。それからふと真顔になり、二度目は随分と寂しげに微笑んだ。
「決まっていないわ」
　女は彼から視線を逸らし呟くように言った。
「牀榻の中ですることが決まっているなんて。そんなの、寂しすぎるわ」
　女は再び驍宗の顔に視線を戻し、寝そべる驍宗に顔を寄せた。その黒曜石のような瞳に、自分の紅い眼が映っているのを驍宗は眺めていた。彼女は暫くそうしていたが、その黒い瞳を閉じて自分から彼に口付けた。驍宗は深緑の髪の上から女の細いうなじを抱いた。そしてもう片方の腕で、寄せられた女の腰を掬うように抱き取ってみた。