雪中の実

「ねえ、李斎。戴にも紅嘉祥の実が生るんですよ」
　泰麒が悪戯めいた目で李斎の顔を覗き込み、そう言った。
「紅嘉祥が、ですか？　まさか。戴の厳しい冬では紅嘉祥が実を結ぼうはずはございません」
「ところが、戴には戴の紅嘉祥があるんです。驍宗様がそう仰っていました」
　そして泰麒は卓の上からぐっと李斎に身を寄せて言った。
「漣に行けば、その帰り途に見ることができるそうですよ。どうです、李斎。これでも漣に行くのは嫌ですか？　行って戴の紅嘉祥を見てみたいと思いませんか？」
　今度の目はいかにも泰麒らしい真摯なもので、李斎は困惑するよりない。
「台輔……私は漣に行くのが嫌だというわけでは……」

　もっとも李斎は、自分が漣国行きを嫌がっていると周囲に思わせてしまっていると分かっている。出立が近付いているのに、どう見ても嬉しそうな表情などしていないのは自覚している。隠しているつもりでも、憂鬱そうな気分が傍からも透けて見えているのかもしれない。
「なにしろ、戴国は漣国に大層お世話になっています」
　李斎は、周囲が自分に施す説明を、泰麒にむかって繰り返し始めた。
「漣には台輔の常世へのご帰還に際し、二度にわたってご助力を賜りました。そのうち一度は台輔が非公式ながら漣国をご訪問なさって、国交らしきものもございます。それに主上の復位に際して、慶国、雁国、範国、それぞれの国王には直接お礼申し上げておりますのに、肝心の呉剛環蛇の持ち主であられる廉王には、未だ主上も私もお礼を直接申し上げておりません」
　ですから。と李斎は溜息と共に締めくくった。
「主上と私とでこれから漣に赴くべきなのだ――このことは重々承知しております、台輔」
「でも、あまり楽しくなさそうですね、李斎は」
「…………」
「この時期の漣への旅は良かったですよ。子供の頃のあの旅は僕の中で楽しい思い出として残っています」
　――今は冬。幼い泰麒を漣へ送り出したのと同様、祭礼続きで冬至の郊祀後暫くは重大な用のないこの時期に、泰王と王后の漣行きが決まったのだった。
「それに廉王はとても良い方ですよ。僕は大切なことを教えて頂きました」
「それはお役目とお仕事のお話ですね。お役目は天が下すものでお仕事は自分で選ぶものだという……」
　李斎は語尾に憂いを滲ませないよう注意しながら応えた。
「ええ。李斎も何か気鬱に感じることがあったら――僕や驍宗様に言い辛いことで――そういうことがあるなら廉王にお話を聞いて貰ってもいいと思うんです。温かい、とても優しいお人柄ですから」
「……別に気鬱というほどのものは……」
　そう言う李斎の前で泰麒は、「あ」と小さく声をあげた。
「それとも、もしかしたら、李斎はずっと輿に乗っているのが嫌なんですか？　確かに窮屈ですものね。以前自由に騎獣を乗り回していた李斎にしたら尚更のこと」
　李斎は冗談めかして言った。
「じっと座っているのに我慢できなくなったら、主上の騎獣に乗せて頂きましょうか」
　泰麒は破顔した。
「それはいいですね！　きっと驍宗様がとてもお喜びになると思いますよ」
　騎獣と同乗するとなると、驍宗が跨るその前に李斎が横に座るという形になるだろう。手綱を握る両の腕の中に愛妻を囲むとなれば、いつもは厳しい驍宗も相好を崩すに違いない。
　李斎の方も少し頬を赤らめながら微笑む。それを見て未だ年若い麒麟も赤面しながら、仲の良い夫婦の旅が若い恋人同士のようになる様を想像し、主の幸せに満足しながら李斎の部屋を辞していった。
　その泰麒の背を見送りながら李斎は、そっと息を吐いた。彼女は今、話の方向がうまく逸れて行ったのに安心していた。
　泰麒は、李斎に周囲に言えない憂いごとがあるなら、漣に言って廉王に話せばいいと言う。確かに自分は今鬱屈した思いを抱えている。そしてそれを、夫にも泰麒にも話すことはできない。しかしながら泰麒の薦めるように、廉王に直接その悩みを単純にぶつけるわけにはいかなかった。
　なぜなら、その漣への旅と廉王の以前語ったという言葉そのものに、自分は屈折したものを感じてしまうのだから――。