将軍

　北国の夕暮れは陰鬱なものだ。しかし、春から夏の短い間だけは話が異なる。夕闇はゆっくりと優しく人々を包み、日中の緊張から解放された人々は漸く寛ぎの時間を迎える。この日を春と呼ぶには随分早かったけれども、その訪れを予感させるに十分な穏やかさを以って、一日が暮れていこうとしていた。
　ただ、そんな優しい夕べも、園林に佇む李斎を落ち着かせてくれなかった。彼女には一人になってゆっくり考えなければならないことがあった。なのに、一人でいると胸の内につい先ほどの興奮が甦りそうになる。
　仕方がない。李斎は短く息を吐いた。自分は、かねてから想いを寄せていた男に求婚されたばかりなのだ。彼女はいっかな鎮まらない自分の心に匙を投げた。こんな時は花影のところに行ってみよう。この親友と共に過ごせば、きっと落ち着くことができるだろうから。
　
「李斎？」
　花影は李斎の訪問を随分驚いた様子で出迎えた。いや、驚きを通り越して訝しげですらあった。
「李斎、どうして貴女がここに……」
「李斎殿ですと？」
　花影の後ろから正頼が出てきて李斎は意外に思う。どうして正頼が花影の邸にいるのだろう。そう李斎が問う前に、相手が先に李斎に訊ねた。
「一体どうして李斎殿がここにいらっしゃるのです？」
　正頼は眉間に皺を寄せていた。そしてその口調は厳しく、どこか責める風だった。
「どうして……と言われましても……」
「今夜は驍宗様とご一緒ではないのですか？　まさか……。李斎殿、貴女はよもや主上の求婚を拒まれたのではありますまいな？　我々は、お二人が今夜実質ご夫婦になられるものと思って祝杯をあげていたところなのですよ」
　李斎は絶句し、赤面した。そうだ、この二人は事のいきさつを知っているのだ。
「正頼殿」
　と花影が正頼をたしなめる。正頼の言いようは、ぼかしたつもりだろうが、それでも生々しく花影には感じられた。花影は、うろたえる李斎を部屋に通した。部屋の卓には酒盃が並び、確かに花影と正頼とで楽しく祝宴を開いていた痕跡があった。
「さあ、事情をお聞かせ願いますよ。李斎殿」
　卓に着きながら正頼が言う。
「事情……」
　もう李斎は疲れ果て、頭が廻らなくなってきていた。正頼がどこか切り口上で問いかける。
「主上は貴女に求婚なされたでしょう？　で、貴女は何とお答え申し上げたのです？」
「ご自分の気持ちをちゃんとお伝えしたのですよね？」
　脇から花影がとりなすように言う。
「え？　ああ……。ええと……、そう、『私は主上に臣下にあるまじき感情を持っております』と、こう申し上げました……」
「で？　それで主上は何と仰ったのです？」
　あの主が一体どうして李斎をみすみす帰したりなどしたのだろうか。正頼はそこが知りたかった。
「奏上文のようだ、と……」
「はあ？」
「ですから、『まるで奏上文のようだ』と主上は仰いました……」
「………………」
　李斎は確かに事実を述べてはいるのだが、正頼や花影にとってみれば全く要領を得ない話にしか聞こえない。
　はああっ、と正頼は苛立ちを込めて盛大にため息をついた。そしてなおも問い質そうとする。
「今日我々と天官長は、主上より、『王后を立てるが民にその備えがあるか』とのご下問を受けたのですよ。で、その当の王后になるべき貴女がここにいらっしゃるのは一体どういうわけなんですか」
「王后の件は……時間を下さると……」
「時間？」
「ええ、『性急だった』と仰ってくださり、私に心の準備をする時間をお与えくださいました。私の心が整うまで待って下さるおつもりと存じます」
「『性急』、ですと？　『待って下さる』、ですと？」
　正頼は素っ頓狂な大声を出した。李斎には彼が何故そんなに苛立たしげなのかわからない。
　彼はそのまま大声で続けた。
「貴女ときたら、一体何年驍宗様をお待たせすれば気が済むのですかっ」
「何年……？」
「正頼殿」
　花影が正頼の袖を引く。
「李斎は、主上のこれまでのお気持ちについては、何も知らないのですよ」
　正頼は憤然と李斎を見て言った。
「では、今、ここで、この正頼からお知らせ致しましょう。いいですか。主上は、蓬山で貴女と初めてお会いになったときから、ずうっと貴女に恋をしておられたのですよ」
「………………」
　今日襲った最後の衝撃に、李斎は言葉を失い茫然と立ち尽くしていた。
　――蓬山。確かにそこには楽しい思い出があった。幼かった泰麒を囲み、驍宗と三人で和やかに談笑していた日々。勿体無くも楽しかったあの時間。禁軍将軍と州師将軍という雲泥の差の身分に頓着することなく、驍宗は李斎を同輩のように遇してくれた。彼女は深々と嘆息した。あれは随分と昔の話のように彼女には感じられる。あの時から――。
　驚きは、李斎の中で静かに感動に変わっていった。そう、彼女は深く心を揺さぶられていた。それほどの長い時間一人の女を想うという、そんな形の愛があるということに。その間、王として自身に課せられたものを背負い、軽々しく私心を洩らさなかった男の自制心に。そして、時満ちてその愛が、この自分という女に捧げられていることに。
　彼女は自分の顔を、他の二人に見られたくなかった。二人にくるりと背を向け、手の甲で目の辺りを拭う。花影が後ろからそっと手巾を手渡してやった。
　そのまま花影は、正頼を目で誘って部屋を出た。
「やれやれ、驍宗様の想いがやっと通じたようですな。これで王后もすぐ引き受けて下さることでしょう」
「正頼殿。李斎の気持ちもお考え下さい。大体、主上ご自身が時間を与えるとおっしゃったのですよ」
　性急な主に長年仕えていると臣下まで性急になるのだろうか。老獪な正頼の常にない直截さに花影は少々呆れていた。
「あの主が、驕王の十分の一でも女好きであったら、私もこんなに気をもみやしませんよ」
　こちらは、いつもの正頼らしい答えだった。
「さ、花影殿。これでも李斎殿が王后を受けないようなら、宜しく説得願いますよ」
　曖昧な笑顔で返す花影を後に、正頼は花影の邸を辞した。