将軍

　李斎は卓に出された夕食に殆ど手をつけなかった。花影は李斎のために、いつも李斎が訪れた際そうするように、自分の寝室に寝台を用意してやった。そして、幸せの余韻に浸っている李斎が寝台に腰掛けるのに合わせて、李斎と向かい合わせになるよう隣の自分の寝台に腰掛けた。
「李斎。それで王后はお引き受けになるの？」
　花影が李斎に問いかける。
「いや……。まだ決心はついていないが……。主上にこれほど想って頂いただけで私は十分だ。王后など華々しい立場なんて要らないと思う」
「李斎」
　花影の厳しい声音に李斎は驚いて目を上げた。
「お逃げになるおつもりですか」
「………………」
「かつての劉将軍はどこへいったのですか」
「……花影？」
「今の貴女は公の官職をお持ちでない。主上の個人的な下官に過ぎません。指揮をとるべき部下もいない。さぞお気楽な立場でしょうね。いつまでもそのような安穏さに居座るつもりですか」
　李斎は表情を引き締めて花影を真っ直ぐ見つめる。
　花影は一瞬たじろいだが、すぐに李斎を見返した。あの大乱の折、李斎が利き腕を失う中、ただ逃げ回っていただけの自分に李斎に説教がましいことをいう資格はないかもしれない。でも、誰かが李斎に言うべきことであり、そしてそれは自分がすべきだと花影は自らを奮い立たせた。
「王后は、華々しいだけではありません。その立場は重いものです。先の峯王についてはご存知ですか」
「逆賊に誅されたという……」
「ええ。確かに誅したものは逆賊と呼ばれるべきでしょう。しかしながら、かの王には討たれても仕方がない失政がありました。そして、この時、王后も斬首されました。これも、王后の地位にありながら王を諌めなかった責があるとして、仕方がないことと各国の官達に解されています」
　斬首もやむなし。それほど重い責任を自分は今親友に負わせようとしている。そう思うと花影は心苦しい。しかし李斎が王后になることは、この国にとって、王にとって、そして李斎自身にとって必要なことだと花影は思っている。
「芳の公主は、当初こそ自分の責を弁えておいでではありませんでしたけれども、今では慶の下官を務め、景王を支えておいでですね。それから巧の公主と太子は先の塙王の失政を償うべく夫役を志願されました。奏では宗王が善政をしいておいでですが、公主が首長として保翠院を営んでおられます」
「………………」
「かように、王のご家族となれば責任が生じます。それがお嫌ですか。貴女は。」
「花影……」
　李斎が何か言い出そうとするのを制して、花影は続ける
「供王の即位のいきさつはご存知ですね」
「……？　御年十二で昇山なさったというのは存じ上げているが……」
「そうです。昇山は国の民の務め。供王は身をもってそれを実践なさったのです。そして貴女もそうでいらっしゃった。貴女は危険な黄海を見事昇山なさいました。貴女は一度は王の選定をも受けようかとなさっておいでだったのに、今、どうして王后位に竦んでおられるのですか。あの名高い劉将軍はどこへいったと言うのです」
「………………」
　花影の言いたいことは李斎にもわかってきた。確かに、周りに担がれるようにしてとはいえ王の選定を受けようとしていた自分が、王后を固辞するのはおかしい。
「そして主上は王であられる。李斎、貴女は確かに一人の男性としての主上に恋をなさったのでしょう。けれども、主上はひとりの男性であると同時に王であられる。これはどうしても切り離せないことです」
　それから。と花影は続けた。
「台輔は麒麟としての本性を取り戻されました。これで主上はお独りになられます」
「……それはどういう意味だろう？」
　花影の言いたいことが読めず、李斎が訊ねる。
「もし、万が一主上が失政に陥ることがおありになれば、台輔は失道の病となります。ここで麒麟と共倒れとなる王もたくさんいらっしゃいます。しかし、主上がこのような道をとられるとは思えません」
「それは、そうだろうな……」
　李斎はあの洞窟の件を思い起こす。良くも悪くも驍宗は今でも、そして最後のときまでその誇り高さを失いはしないだろう。泰麒への愛情からしても、彼は独りで退く道を選ぶに違いない。
「このような場合、主上はきっと禅譲なさる。そして台輔は新しい王を見つけられる。そうやって、戴は新しい時代を生き始める……」
　その新生した戴の中枢には泰麒の姿がある。正頼も花影も琅燦も、皆。欠けるのはその時代を用意してやった驍宗だけだ。
「王と麒麟とは一心同体であるのも確かです。ただ、このような別れもありえます。そして主上は必ずこのような別離をお選びになる。このたび台輔が麒麟としての本性を取り戻しになったということは、あくまで可能性の話ではありますが、主上と別の人生を歩まれるようになられたということ。そして、主上は今、本当にお独りなのです」
　李斎は胸が詰まった。確かに、王は孤独だ。驍宗のような王ならなおさら――。
「どの国の王も孤独なものではありましょう。でも、景王はご自身で信頼に足る友人を得られておいでです。また、延王は、官僚の体制が磐石だからこそでしょうけれども、民草に紛れてお遊びになったり他国に援助なさったりとお忙しくお過ごしです。そして宗王には人生を共にするご家族がおいでになる」
　花影は李斎を見つめて言った。
「李斎。貴女が強く望めば、主上も貴女の意を汲んで、只の恋人なり身軽な身分の妻の位なり、気楽な立場をお与えになるでしょう。でも、貴女自身それでよいのですか。主上の人間としての部分でだけ繋がっていて、王としてのあの方を孤独の中に置く。そんなことが貴女にお出来になるとは思えません」
　李斎の表情が変わったのに対して、花影は更に続けた。
「今日、主上より李斎を王后に迎えたい旨、ご下問がありました。主上は王として貴女をその后に必要とされています。そして、民もまた、貴女を王后に頂きたいと願っている……。お二人に気持ちさえあるなら、救国の女英雄には、王の傍らにあって民を見守って頂きたい。そう民も願っていると思うのです」
　李斎は黙ったまま花影を見つめていた。花影が自信を持ってこうも熱弁を振るうのを見たのは初めてだった。その弁は筋が通っており、そこには国を、民を、そして李斎を思う誠実さがあると李斎は感じた。
　――王后位。花影の話を聞いて、初めて李斎はこれを自分と関係のあるものとして実感し始めた。
　考えに耽る李斎をしばらく見つめてから花影は言った。
「まあ、もう随分夜も更けてしまいましたね。さぞお疲れでしょう。長話をしてごめんなさい。さ、もう休みましょう」