将軍

　静かな夜更け。誰も居ない厩舎の扉をギイと開けて中へ入ってきた者があった。鋼色の髪をした青年が、一番奥に横たわっている天馬の許へと歩み寄る。
「飛燕」
　泰麒は呼びかけたが、この年老いた天馬はわずかに尻尾を持ち上げて応えただけだった。泰麒の胸が痛む。もう、飛燕にはこれが精一杯の応答なのだ。
　飛燕、ともう一度名前を呼びながら彼は天馬の背を撫でてやった。救国の女将軍の乗騎ということで、飛燕はこの厩舎の中でも最も大切に世話をされてきていた。しかし、どんなに丁寧に毛を梳いてやっても、もうこの獣の毛並みに艶はなく、ところところ毛が抜け落ち襤褸のようになっているところさえある。
「さっき、李斎の官邸に行ってみたよ」
　飛燕がかすかに、くうと鳴く。主の名を聞くのが嬉しいらしい。
「でも、いなかった。今夜は驍宗様とご一緒だと思う」
　飛燕が、頤を持ち上げぐるるぅ、と不機嫌そうに鳴いた。泰麒は驚き、ぱちぱちと目を瞬かせた。――娘を嫁がせる父親のような心境なんだろうか――。泰麒はそう思って苦笑した。飛燕は確かに李斎の乗騎だが、飛燕の方も年若い女将軍を娘のように守り慈しんできたつもりなのかもしれない。
「大丈夫だよ。安心して。李斎のこと、驍宗様は本当に大切になさるに違いないから。君の主は僕の主がちゃんと守るから。ね」
　飛燕は納得したのか、ふうっと息を吐いて上肢の間に顎を沈めた。
　飛燕の背を撫で続けながら、泰麒は飛燕の隣に座る。
「文州からの帰りにね。驍宗様とお話したんだ。僕の名前を驍宗様は『蒿里』とおつけになっただろう。これには『再生』への願いが込められていたんだ。でも、僕は戴の再生の役にあまり立ちませんでしたね、って驍宗様に申し上げたんだ。そしたら、そんなことはないって仰って……。その理由というのはね」
　泰麒は飛燕の方を向いて言った
「『お前は李斎を見つけてきた』からって。そう驍宗様は仰ったんだ。確かに僕が李斎と仲良くなったから、驍宗様と李斎も蓬山で直接出会えたわけだものね」
　数多いる昇山者。蓬山公と誼を結ぼうとする人々。それらの中で、王気があるわけでもない李斎を特別に見出すことができたのは、今思えば本当に数奇なことのように思われる。李斎から片腕を失わせてしまったけれど、彼女のおかげで戴は今再生を果たそうとしている。
「でも、それが戴の再生につながった、っていうことなら、飛燕だってお褒めに預かるべきだと思うんだ」
　泰麒は飛燕の頭を軽く撫で、手を離して続けた。
「小さかった僕は、天馬が珍しくて。それに飛燕がとても綺麗だったからそれで女仙と一緒に駆け寄ったんだもの。そしたら李斎が居て。だから、驍宗様と李斎を結びつけた功績って、飛燕にもあると思うんだ」
　飛燕はかすかに息を吐いただけだった。その弱々しげな様に泰麒は表情を曇らせる。
「初めて見たとき、李斎のこと綺麗だって思った。とても凛々しいなって。李斎は王后にお立ちになるけど、きっと凛々しい――剣を持たない女将軍のような、そんなお后様になると思うよ」
　飛燕は力を振り絞るように息を溜め、ふうっと吐いた。それきり、その呼吸はしだいに間遠なものとなっていく。泰麒は唇を噛み締めながら、そのまま黙って飛燕の背を撫で続けた。
　扉から一条の光がさした。先程から空気が白みがかり夜の明けようとする気配はあった。しかし、このくっきりと明るい光は、まさに朝日が地平線からその姿を現した証に他ならない。
「夜が、明けたよ。飛燕」
　泰麒が幾分明るい声で飛燕に呼びかけた。飛燕は動かない。泰麒は飛燕の顔に自分の顔を近づけて息があることを確かめ、救国の女将軍の乗騎を勤め上げたこの天馬の耳元に話しかける。
「戴は長い黄昏にあった。でも、ようやく暁を迎えたんだ。君のおかげだよ。有難う、飛燕。戴の再生を君に見せてあげることができて良かった。間に合って……良かった……」
　飛燕は動かない。その背に手をおいたまま、泰麒は扉の方に顔を向け、明るさを増す光を見つめていた。
　戴国を照らす曙光が、泰麒の頬を一筋また一筋と濡らす水滴に跳ね返り、きらきらと煌いていた。ポトリポトリと光の粒が、厩舎の藁の中に落ちていったが、泰麒は顎を上げ、青年らしい毅然とした貌をその旭日に向けていた。