将軍

　翌朝、普段と同じく自分の机に向かって李斎は思案していた。自分には、今日、驍宗に告げるべきことがある。言葉は花影が用意してくれた。でも、その前に自分らしいやりかたで、そう、言葉より先に行動に出てしまう性分の自分らしく、彼に自分の心を伝えたい。策はあった。でも、なにをきっかけにしたものか――。
　扉の開く音がした。執務室に入ってきた驍宗は、真剣な面持ちで彼を待ち構えていた李斎を見て、少しばかり驚いた顔をした。
「何だ。まさか仕事をしにきたわけではないだろうな」
「そのつもりで参りましたが……」
　ふっと驍宗は苦笑する。
「李斎はいつでも李斎だな。律儀なことだ」
　だが、と笑いながら続ける。
「仕事はないぞ。蒿里に取り上げられてしまったからな」
「は？」
「あれもしたいこれもしたいと私が言い始めたら、叱られた。そう一度に何もかもしようとするな、と。文州から禁軍が引き上げてくるまで、休暇を取れとの宰相からのお達しだ。その間熟考して政策の優先順位をつけておけ、という」
「まあ……」
「麒麟としての本性を取り戻して、自信をつけたようだな。堂々とした宰相ぶりだ」
「頼もしくていらっしゃる」
　李斎が微笑む。李斎の笑みを驍宗はしばらく見つめ、それから――と続けた。
「李斎の件でも怒られた。性急すぎる、と。蓬莱ではいきなり求婚などしないものだそうだ」
　それはこちらも同じではないだろうか、と李斎はそう思うが黙っていた。
「しばらく二人で仲良く過ごせ、という」
「仲良く……？」
「街に下りて芝居を見に行くとか、景色の良いところに一緒に出かけるとか、そういったことをしてみてはどうか、と蒿里は言っていたが。とは言っても、私たち二人で街に出ると目立つであろうし……」
　驍宗は手を差し出した。
「とりあえず、今日は園林の散策でもしようか。実のところ私は即位以来、園林を歩いてまわったことがないのだが。李斎はどうだ」
「私も用のあるところしか通ったことがございません」
「では、今日は二人とも行ったことのないところに行ってみよう」
　と、彼は李斎の手を握った。面映い気持ちでそっと彼女もその手を握り返した。彼女の頬がほんのりと染まっている様を男は楽しげに見る。
　冬枯れたままの林に、梅の香りが昨日より一層馥郁とただよう。吹く風には少しばかり冷たさが残るが、陽光は春のそれに近いものとなっていた。
「少しだけ、寂しそうだったな」
　と歩きながら驍宗が言う。
「は？」
「蒿里が私に説教した、と言ったときだ。李斎は笑ってはいたが、少しだけ寂しさが混じっていたように見えた」
「そうでございますね……。本当に大きくおなりになって……」
　まろぶように駆けて来るあの稚い少年はもういない。その少年が可愛がっていた飛燕も老い、李斎が厩舎に出向いても弱々しく尻尾を振るばかりだった。蓬山の夏は遠い。李斎の心に一抹の寂しさが過ぎる。
　――けれども、あの時から今に至る長い年月、この方の心はずっと私の傍にあったのだ――
　李斎の胸中に浮かんだ別の感慨を知る由もなく、驍宗は李斎が寂しがらぬよう、彼女の気を引き立たせるように明るく話しかける。
「子供と言うのは大きくなるものだ。蒿里はもともと聡明だった。こうして成長して、私を叱責してくれるのは実に頼もしいというもの」
　驍宗は李斎に笑いかけながら続けた。
「だから李斎も安心していい。王后の件についても、性急なことは言わぬ。そんなことをすれば蒿里に叱られてしまうからな」
　李斎は立ち止まった。訝しげな顔で驍宗も立ち止まる。
「どうした。李斎」
　彼女は黙って心持ち伏目がちにゆるゆると首を振った。赤茶の長い髪がそれにあわせてゆらゆらと揺れる。そして顔を上げると驍宗の瞳を真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「昨日、正頼殿に叱られてしまいました」
「ほう？」
　李斎の眼を驍宗も見返す。
「『貴女は一体何年主上をお待たせする気ですか』と。随分きつく怒られてしまいました」
「……あやつめ。余計なことを言う」
　驍宗は照れくさそうにそっぽを向く。そう、このお方はほんのときたま少年のような表情をお見せになる――と李斎は思いながら、真面目な顔で彼を見つめたまま言葉を続ける。
「主上が性急でいらっしゃるなら、李斎が――」
　眦を決して彼女は驍宗に一歩詰め寄った。軽く目を見開く驍宗に一言も発する隙を与えず、彼女は力を込めて言い切った。
「この李斎が追いついて見せます」
　言い終わるが早いか、彼女は自分の唇を彼のそれに重ねた。
　しかしながら、それは一瞬のことで、彼女は自分がしたことだというのに大層狼狽しながら顔を離してしまった。彼女は驚いていた。その男の唇が随分と柔らかいことに。どんなに屈強な男でも唇だけは柔らかいものだと知らないわけではなかった。だが、目の前のこの男が、頼りないほど柔らかな唇をしていることに、彼女は吃驚してしまったのだった。
　しばらくの間、男も女も呆然と相手を見ていた。
「は」
　男の方が先に笑った。驚きに目を見開いたまま、口だけを大きく開けて。
「李斎は――」
　愉快そうに笑いながら彼女の手を引き、胸に抱き落としながら彼は言う。
「いつからこんな奇策を用いる将となった――」
　彼の腕に抱かれながら、李斎は言うべき言葉を思い出す。そうだ、言わなければ。
　――お慕い申し上げております。
　しかし、紡ぎかけられたその言葉は宙に発せられることなく、そのまま男の唇の中へ吸い込まれてしまった。