書物

　冬はまだ去っていない。けれども、空気は湿気を含んで重くなりつつあり、季節が変わろうとする兆しを見せていた。
　その中でも天気の良い日を選んで、李斎は自室を出て白圭宮の中心、本来なら王の寝殿となる正殿へと出向いた。
　その途すがら、戴国はやっと大乱が終わったばかりなのだな、と彼女は思った。騒乱がひと段落した頃から彼女は病で伏せており、その間塞ぎこんで過ごしてきたから随分時間が経ったように感じる。しかし、大乱後、瓦礫の山と化した官府や宮殿は、今でも破壊の痕跡をむき出しにしたまま放置されており、彼女の部屋の外では時間は遅々として殆ど過ぎていないかのようだった。
　それは偽王を討伐した正当な王、驍宗が宮城より下界の復興を優先したためでもある。一口に建物の修復といっても、戴の冬の厳しさを考えると、寒風の入らないよう壁、窓、屋根など念入りに施されなければならない。
　幸か不幸か、朝で働く官人の数は大乱前に比べてかなり減っており、やらなければならないことはたくさんあるが出来ることは限られている。今年の冬は、官府や官邸を揃って建て直すより、正殿をはじめ限られた建物だけを集中して修理し、諸官に主に正殿の房室を割り振ることで当面乗り切ることにしたのだった。
　李斎は正殿に近づいていった。今日王を訪問することは告げていない。未だ心身は本調子ではなく、前もって告げても、必ず訪ねて行けるとは限らない。王のご都合が悪く会えなければそれでもいい、と考えてのことだった。
　先触れのない訪問者でも、大僕に不審がる様子はない。右腕のない、赤茶の髪の長身の女性を見れば、それが誰だかわからぬ者は白圭宮にはいない。彼は、訪問者が、その右腕と引き換えに戴国を救った英雄であることを即座に認めて、殿の中へと扉を開けた。
　扉が開くと、まるで転がり出るように喧騒が溢れ出し、李斎はしばし圧倒されて足を止めた。中に入ると、各房室の扉はほとんど全て、暖房の効率などお構いなしに開け放たれていた。それも道理、誰も閉める気など起こさぬ程、ばたばたと官人達が出入りしている。あちこちの部屋から、大小様々な声で議論したり指示を出したりする声が廊下にわんわんと響きわたり、時折怒号すら飛び交っていた。
　王の執務する房室へと、案内されて歩みを進めていくうちに李斎もこの熱気に慣れ、そうするとここが、まるで活気あふれる市場のように思えてきた。これは、戴国が復興へと歩んでいく足音なのだ。そう思うとその喧しさも心地よいものとなり、彼女の気持ちも明るくなる。
　今日は、先日王から賜った任に、そろそろ取り組み始めることが出来る程度に回復した旨、報告にきたのだった。これから自分も、この騒々しい官人達と共に、この国を前へと動かす一翼を担うのだ。一歩進む度に李斎の中にそんな喜びと誇らしさが満ちてくる。
　廊下を楽しそうに歩きながら、李斎は見るともなく扉の開け放たれた房室の中を見ていた。そして一つの房室の前で、はっと歩みを止めた。――そこには、彼女の親友、秋官長の花影がいた。彼女は窓を背に下官と書類を見ながら何か話し込んでいる。
　李斎は彼女を見つめた。彼女も李斎の視線に気付いたのか、驚いた顔で李斎を見た。しかしそれはほんの一瞬だけで、見たはずの李斎に何も声を掛けず、視線を逸らし、差し出された書類に指を滑らせながら再び下官と話しこみ始めた。
　このように花影に無視されて、つい先ほどまでの高揚した気持ちはたちまち萎み、鉛のような重苦しいものが李斎の胸の内に降りる。心地よかった喧騒は、今や不快な雑音として彼女を取り囲み、自分と現実の間に透明な隔壁が生じたような、地をつけたはずの足元が崩れていくような、そんな嫌な眩暈を彼女は感じた。
　――やはり――。李斎は大乱後、彼女との友情がほぼ崩れ去ってしまった事実を、今日改めて認識させられたのだった。