少年の影

　夏の盛りを過ぎたばかりの頃だった。この日もまだ陽射しが強く暑かった。にもかかわらず、今日も泰麒は官服をきっちりと着込んで、瑞州府に姿を現した。結局今年の夏も、彼は官服を些かも着崩すことなく過ごすことになるだろう。
　州侯の姿を認めた官人の一人が、常に無い慌てた様子で、足早に泰麒に歩みよって来た。そして一通の書状を差し出す。
「下界からの急使でございます」
「急使？」
「何でも……随分奇態な客が舎館に泊まっておるようでして……」
　泰麒はその話の先が見えたような気もしたが、ともかく書状を開いて読み始めた。
　その書面はまず、その奇態な客がこの世ならぬ程美しいことを述べていた。長身の艶やかな麗人と愛らしい少女の二人連れ。揃った姿はさながら一幅の絵のよう。決して派手に着飾るわけでないが、二人とも誠に趣味の良い格好で、身に着けているものも相当に高級な品と思われる。そして何より本人達の尋常ではない華やかさ。
　――しかしながら、その長身の麗人の方はどう見ても男のようにしか見えない……。
　泰麒は書面から顔を上げ、苦笑しながら官人の顔を見た。
「綺麗なお客さんで、そのうち一人は女装の男性……変と言えば変だけど、普通は州侯の僕まで上がってくる案件ではないですね。それなのに僕に知らせようと言うことは……皆、同じことを考えているからでしょうね」
「はあ……」
　官人は泰麒に話が通じたことに半ば安堵したものの、それでも顔から困惑の色は消えない。
　誰が言いだしたか定かでないが、春の終わり頃、朝議において、ある議題が持ち上がった。戴の復興にも目処が立った今、泰麒の帰還をはじめ戴の再生にご助力賜った国に、そろそろ主上と王后とがお礼を申し上げに伺うべきなのではないか。そして夏の始め頃、訪問先が決定された。景王と延王にはお会いしたから次は氾王だろう、と。
　そこで目下、範と戴の国府の間で青鳥がやりとりされて、具体的な日程などを調整している。こういう訳でここのところ、戴の官人達は氾王の為人についても頭の片隅で記憶を温めていたところであった。尤も氾王に私的に会ったことがあるのは王后の李斎だけで、彼女の体験談しか知る術がなく、限られた挿話しか戴の官人達も知らないが。
　ところが、その挿話どおりの人物が鴻基の街に現れたのだ。
「僕もやはり氾王と氾台輔だと思いますね」
「……しかし、何故。こちらから主上が伺うとお知らせしておりますのに……」
　泰麒の推論に、官人の方は恨みがましく呻いた。
　この官人は、普段なら泰麒に対して年長者らしい態度をとる人物だ。どんなに暑くても官服をきちんと着る泰麒の律儀さや、難しい公文書を泰麒独りで読めるようになったことなど、ほとんど毎日何かしら褒めてくれるのが彼の癖のようなものだった。
　けれども今の彼にそのような余裕はない。何せこの二人があのお二人なら、これから白圭宮は大変な騒ぎになるのだから。官人を宥めるように泰麒は言った。
「氾台輔の中身は延台輔と同じと聞いています。多分氾王も延王のような方なんじゃないかな……。気安い、というか……」
　フットワークが軽いというか。泰王が他国に謝恩の旅に出られるほど戴が復興したと聞いて、「それでは戴の様子を見に行ってみようか」くらいの軽い気持ちで来られたんだと思うけど……。泰麒はそっと息を吐いて官人の強張ったままの顔を見やった。こちらの世界では、フットワークの軽い王様というのは官人を困らせるものだと彼は知っている。
　事実、その官人も、夏の暑さだけではない汗を額に滲ませていた。
「それでも私どもが知ってしまった以上は、白圭宮にお迎えしなければなりません。掌客殿の方はすぐに整えることが出来ると思いますが……。如何せん、主上がご不在では……」
　驍宗はこの時、地方の州城に出掛けていた。戻るのは三日後の予定だった。
「主上はお留守だけど、この国の宰補はここにちゃんといるよ」
　そう言いながら、泰麒は椅子からすっと立ち上がる。そして背筋をピンと伸ばして、官人に指示を与え始めた。
「瑞州府からその舎宿にお迎えの使者を出して下さい。僕はこれから、外交を掌る秋官府へ出掛けて花影と打ち合わせをします。驍宗様には汕子に報せに行って貰います。ただ、驍宗様がどんなに急いでもお戻りは早くて今夜でしょう。さしあたって王后に主上の代わりを務めて頂きましょう」
「はい！」
　やっと官人の顔に生気が戻り、ほっとした表情で礼を取ると、部屋から退出していった。　
　それを泰麒は満足気に見送る。自分が出来るだけテキパキして見えるように振舞った甲斐があったようだ。「良かった」と泰麒は笑んだ。そこには困った顔の官人の役に立ちたい、という慈悲の獣としての願いもあった。けれども今回はそれだけじゃない。
　――驍宗様がいらっしゃらなくても、僕一人でお客様を迎えるくらいできる。
　僕はもう成獣したこの国の宰補なんだから。ちゃんと驍宗様の留守を預かることが出来るんだから。
　泰麒は本人も気付かぬ内に、胸の前で右の拳を握り締めていた。