少年の影

　大行人に案内されて、白圭宮の掌客の間に足を踏み入れた麗人と金髪の少女は、一瞬歩みを止めて互いに顔を見合わせた。
　掌客の間では、正装した官人達が、賑々しく但し整然と列をなして氾主従を待ち構えていた。その奥には、いかにも戴国製らしい武骨ながら品のよい机と椅子が用意され、傍に李斎が立っていた。
　彼女の顔にはどこか、申し訳無さそうな、身の置き所が無さそうな、そんな表情が浮かんでいた。前に彼女と対面したとき、彼女は一介の将軍に過ぎず、王や麒麟の前ではただの臣下だった。それが今回は、一国の王后として不在の王に代わり、賓客をもてなす立場となっている。謙虚な性分の彼女としては、気恥ずかしいような気になるのだろう。
　「そう畏まるなることはないのだよ」と李斎に言ってやりたくて、氾王は奥へと歩き出した。実に優雅な足の運びだった。そして彼は机についたら、こう言おうと思っていた。「それに、こんな仰々しいお迎えも止してくれるかえ」と。
　しかしながら、氾王が流れるような仕草で椅子に腰を下ろし、李斎に向かって声を掛けようとしたとき、彼は一人の青年が李斎の側に控えているのに気付いた。彼は開きかけた美しい唇を再び閉じた。
　――ほほう。
　氾王は一度驚きに目を見張り、それからふっくりと笑んだ。泰王の即位礼で見たあの鋼色の髪の稚い子供。あれから幾年経つのだったか……成長するとこのような青年になるものなのじゃな……。今の泰麒の姿も氾王の美意識に十分適うものであり、氾王は目を細めて泰麒を見つめた。
　一方、氾王の視線を受け止めた泰麒は、指の先までピンと神経を張り詰め、身を引き締めた。そして瞬きを数回してから氾王に口を開いた。
「氾王、氾台輔におかれましては……」
　声が少々裏返ってしまい、泰麒はここで一つ咳払いをした。
「氾王、氾台輔におかれましては、遠路はるばるのお越し大変恐縮でございます」
　いきなりの堅苦しい口上に、氾王は一瞬呆気に取られた顔をし、そしてにこりと笑んだ。泰麒が緊張の所為か少し頬を上気させているのがなにやら可笑しかった。
　泰麒の方は、先程から準備していた挨拶を諳んじるのに懸命だった。だから、氾王が胸元から繊細な銀細工の施された扇を取り出して少し拡げ、自分の口元を隠したのにも彼は全く注意を向けなかった。眼には入ってきていても、その意味するところまで気が回らなかったのだ。
「以前には、僕の帰還のために、慶まで足を運んでくださって本当に有難うございました。お礼を申し上げるのが遅くなってしまって大変申し訳ありません」
　ここで泰麒は丁寧に頭を下げた。泰麒の心からの感謝の念が伝わってきて、氾王もふわりと頷いて応えた。
　それから泰麒は依然真剣過ぎるほど真剣な表情で続けた。
「粗末ではございますが、ご滞在いただくお部屋もご用意致しました。主も不在で至らぬ点も多々あると存じますが、どうかご寛恕下さいますようお願い申し上げます」
　氾王はさきほどから泰麒に感じる可笑しさの理由がはっきり分かったような気がした。確かに戴台輔は幼い子供ではなくなった。しかしまだ若過ぎるほど若い。それなのに言葉遣いや態度が仰々しく、丁寧すぎるのだ。まるで年を重ねた老人のように。
　泰麒の大人になりたいという気持ちはわかる。そしてその気持ちは、帰還を助けた氾主従の恩に報いたい気持ちや、泰王と李斎に対する愛情と、ごくごく近いところにあるのだろう。ただ、その気持ちは少しばかり逸りすぎて、大人をとびこえて年寄り臭くなっているように思われる。
　おそらくこの掌客の間での威儀を正した歓迎ぶりも、この若者の「きちんと客をもてなしたい」という願いの表れであろう。それにしても、何とまあ……。
　泰麒の一生懸命背伸びした、年に似合わぬしかつめらしい顔に、扇の裏で笑いをかみ殺しながら氾王も声音だけは真面目に答えた。
「戴の復興著しいと聞き、つい懐かしさで遊びに伺ったまで。わざわざ白圭宮をお騒がせして心より相済まぬと思う。ご丁寧なお迎えいたみいる」
　そして今度は李斎に向かって言った。
「台輔のご成長ぶり、誠に喜ばしい限り。ほんに実にご立派な宰補となられた」
　その言葉に李斎は明らかにホッとした表情を浮かべる。
　氾主従を迎えるにあたって、彼女は一応自分の意見を言ってみたのだ。「氾王は堅苦しい形式にはこだわらない方ですから、私的にお迎えするのでもよいと思うのです」と。しかし、泰麒は首を振った。「どうか李斎は心配しないで王后として気楽にしていて下さい。僕がちゃんと手配しますから」。泰麒はそう宣言したのだった。
　そのような訳で李斎にとって、氾王の言葉は泰麒の意気込みが報いられたようで嬉しいものだった。そしてその喜びが素直に大きな微笑みとなって李斎の顔に拡がって行く。
　――まるで子の出来不出来に一喜一憂する母親のようなものじゃな……。
　銀細工の扇子の陰で、氾王の唇は再び横に拡がる。泰麒がことさら澄ました顔を崩さぬ一方で、李斎の方は相変わらず心中の感情が正直に顔に出る。この取り合わせの妙も氾王には面白かった。
「やはり並外れたご苦労を経験されただけのことはある。同じ麒麟でも、ウチの嬌姫や延の小猿とは大違いだね」
　あら。氾王の隣に腰掛けていた金髪の可憐な少女が初めて声を上げた。
「私とあの六太を一緒にするなんてあんまりだわ」
　口を尖らせる氾麟に、氾王はにこやかに語りかける。
「だって、梨雪。あんな悪戯を思いついたのは、そなたの方じゃないかえ？　こちらの麒麟はそんなこと思いつきもなさらないと思うよ」
「でも！　主上だって大乗り気でいらっしゃったじゃない」
　――ふむ。
　確かに氾麟の言うことは当たっていたので、氾王は扇を額に当てて少し考える格好をした。そこへすかさず氾麟が畳み掛ける。
「だったらアレは中止に致します？　主上だってとっても知りたがっていらしたのに……」
　中止？　氾麟の言葉に、泰麒をはじめ戴の者達は一同揃ってぎくりとした。今回のお忍びでの戴訪問、これだけで十分悪ふざけだろうに。まだ他に「悪戯」を企んでいらっしゃるというのか、このお二人は。
「いやいや、やっぱり私もアレがどうなるか是非とも知りたいところ。梨雪、やってご覧」
　あのう、ここは戴国なんですけど。よその国で悪戯をするというのは如何なものかと思うんですけど――。
　泰麒は客人たちにそう主張したかった。けれども、賓客への礼儀と戴国の面子とを両立させるのに、どのような言葉を用いればよいのかわからない。結局、泰麒は、李斎が心配そうに自分を見つめているのさえ気付かず、必死で口をパクパク動かすことしかできなかった。