少年の影

　薄暮の中、白圭宮は夜を迎え入れようとしている。その王の私室で、梨雪は、驍宗から吸い付くような視線で見つめられて、困惑していた。

　驍宗は単身で日暮れと競うかのように乗騎を駆り、日が沈む直前に白圭宮に滑り込んでいた。そして今は私室で、氾王と対面するための用意を整えている。
　梨雪は彼女の主の許しを得て、蠱蛻衫を被り一人でこっそりと驍宗の部屋の前までやって来た。そして、半分開いた扉からそうっと中を覗きこむ。
「…………」
　女官の差し出す礼服を手に取った驍宗は、そのまま暫し何か考え込んでいるようだった。そして徐に口を開く。
「氾王は私服を着てお越しなのだろう？　私があまり堅苦しい格好では先方もお寛ぎになれまい。客に合わせた服を着るべきだと思う」
「ええっ。では主上も女物をお召しになるのでございますかっ？」
　何故そうなる。驍宗は心の中で呟く。氾王のお姿が白圭宮の皆の調子を狂わせてでもいるのだろうか。けれども彼は落ち着いた声で命じた。
「……略式の官服を持ってきてくれ」
　女官は自分の失言に顔を赤らめながら、慌てて部屋から飛び出していった。そして驍宗一人となった部屋の中に、梨雪は女官と入れ違いにそっと入り込んだのだった。

　泰王を間近で見るのは梨雪にとって初めてだった。天を駆け抜けて白圭宮に到着したばかりの彼は、青みを帯びた銀髪を無造作に束ねて下の位置で括っている。いかにも武人といった風の彼が、皮甲を外し着替え始める。
　驍宗は人の気配には気付いていたが、王宮では彼の周りに誰かしら世話をする者がいるのが普通なので、今の時点では注意を向けていなかった。おかげで梨雪は驍宗をじっくり観察することができた。
　驍宗は無駄のない動きで上半身の衣を脱ぎ、堂々とした体躯を剥き出しにすると、女官の置いていった手巾で汗を拭う。その間も、端正な顔にいかにも怜悧そうな表情を浮かべ、何事かを考え込んでいる。
　この時驍宗は、範国の主と話し合うべき課題について考えていた。自分の範訪問を目処に、それぞれしかるべき諸官に諮っているが……。そのいくつかは今夜話題に出してもいいだろう。とはいえ、先方は遊びにいらしたのだから、あまり性急に進めるべきではないのだろうな……。
　精悍でいながら理知的な風貌な男が、何かを真剣に思案している姿は、梨雪の目にも実に美しいものと感じられた。
　――王様らしい王様だわ。
　私の主上の方が素敵だけど。それでも泰王はさすが傑物として名高かっただけのことはあるわね……。そう思いながら梨雪がわずかに息を洩らしたその時だった。

　驍宗の眼が素早く梨雪の姿を捉えた。ただ視線が合っただけなのに、その迫力に梨雪は思わず首を竦める。
　一方、驍宗の赤い瞳は、梨雪の姿を認めて大きく開いた。そのまま視線を彼女に釘付けにしながら、ゆっくりと身体全体で彼女の方へ向き直る。しかしそれ以上は動こうとせず、驚愕の表情を浮かべたまま彼はじっと梨雪を見つめている。
　彼は落ち着きを失っているわけではない。一度開いた口も軽く閉じられている。けれども、その両眼は梨雪――の被っている蠱蛻衫が見せる誰か――以外の何物も見ていないのは明らかだ。そしてその赤い瞳が、梨雪にも見て取れるほど小刻みに揺れている。彼の中で様々な感情が迸り、その奔流が瞳の中でせめぎあっているのが分かる。
　これほど静かで烈しい動揺というものを梨雪は見たことがない。今まで色々な人の前に蠱蛻衫を被って現れたものだが、ここまで大きな衝撃を与えたことはなかった。
　――一体誰の姿を見ておられるのかしら？
　驍宗の前に蠱蛻衫を着けて現れる、という単なる悪戯がこうも緊迫した状況を招いてしまい、梨雪は困惑するよりない。
　蠱蛻衫を被った梨雪自身の表情が相手に見えるはずはないのだが、彼女の困惑が通じたのか、驍宗の顔から驚きの色が消えた。彼は、氾王と共に氾麟も白圭宮に滞在していることを知っているはずだ。蠱蛻衫の話も李斎から聞いていることだろう。
　そして、彼があれほど驚愕する相手が現実に彼の前に現れる可能性と、それが蠱蛻衫を被った梨雪である可能性と、この二つを秤にかけて彼の犀利な頭脳は後者だという答をはじき出したようだ。
　それでも――驚きを過ぎても――彼は梨雪を見つめるのをやめない。彼の表情は冷静で何かを諦めた沈痛なものだが、赤い瞳の中では依然として、愛おしさと哀しみと後悔が荒々しくぶつかりあっている。
　――愛惜の念。
　多分そうなのだろう。この人からこれほど激しい感情を引き出す人物はきっともうこの世にいないのだ。そう梨雪は思った。

　驍宗はゆっくり眼を閉じ、深い溜息の後、再び開いた。そして、もう夢は終わったという調子で梨雪に話し掛けた。
「少々悪戯が過ぎてはいないだろうか、氾台輔」
　梨雪は大慌てで蠱蛻衫を脱ぐと脇に置き、丁寧に会釈した。
「驚かせてしまってごめんなさい。改めてご挨拶いたします。氾麟でございます」
　驍宗も礼を返す。そのまま無言で苦い笑いを浮かべているのは、梨雪に説明を促しているのだろう。彼女は上目遣いで言い訳するよりなかった。
「あのう……ごめんなさい。前々から主上と気になって仕方なかったことを試してみたくて……」
「ほう、氾王も」
　驍宗の言葉に棘はないのだが、一層濃くなる苦笑に梨雪はますます首を竦めざるをえない。でもここで悪戯の核心に触れないわけにいかない。
「あの、ずっと前から主上も私も思ってたんです。もし私が蠱蛻衫を着て泰王の前に現れたらどうなるだろうって。その場合、泰王は泰麒と李斎のどちらの姿をご覧になるのかしらって」
　はあっと驍宗は息を吐いた。抑えたつもりでも、呆れた調子が混ざってしまう。しかしそれも仕方あるまい。
　梨雪もその溜息の含むところに気付かないわけではなかった。しかし、悪戯を口で説明しているうち、これまで氾王とあれこれ想像を膨らませていた楽しさが甦ってきた。そうなると、もう好奇心がとまらない。少しの間躊躇ったものの、梨雪は思い切って尋ねてみることにした。
「……それで、どなたをご覧になりました？」
「氾台輔……」
「あ、梨雪と呼んで下さいな。私、結構おばあちゃんなので少々厚かましいかもしれないけど、どうか気になさらないで」
「…………」
　やれやれ。蒿里がこれほど図太くなるにはあと何年掛かるだろう。こんなことを考えながら驍宗は梨雪の質問に質問を返した。
「蠱蛻衫は『見ている人にとって好ましいように見える』と聞くが……。好ましい、だけでは範囲が広すぎる。おそらく蠱蛻衫の映す者は『どんなに会いたいと願っても、それが適わぬ相手』なのではないだろうか」
　梨雪は額に指をやって暫し考えた。蠱蛻衫を使った相手の全てに聞いた訳ではないから、驍宗の言うことが当たっているかどうかはわからない。ただ、驍宗にとってはそうなのだろう。
「仰ることが当たっているかはわかりません。でも、そう仰るということはお見えになったのは、泰台輔でも李斎でもないということかしら？」
「いや……」
　驍宗は軽く首を振り、梨雪に背を向けて窓の外を見やった。夏の夜の庭は、樹木に茂る葉が幾重にも重なって月の光を遮り、どの季節より一層暗いものとなっていた。
「私の目に映ったのは、蒿里だ」
「……？」
　彼は背中越しに説明を加えた。
「ただし、まだ稚かった十歳の頃の蒿里だ」
「…………」
「――いや、私は、本当はもっと別の蒿里を見たいのかもしれない……」