少年の影

　驍宗と梨雪は掌客殿に向かっていた。梨雪は蠱蛻衫を被っていたから、廊下ですれ違う官人達も誰も麒麟がいるとは気がつかない。
　というよりも、誰も梨雪の方には注意を向けておらず、驍宗が近付いてくるのを認めると彼らは一様にほっとした表情を浮かべるのだった。そして、掌客殿に近付けば近付くほど、彼らの安堵は大きくなっていくようだった。
　驍宗と梨雪の二人が、氾王のために用意された部屋に続く廊下の最後の角を曲がったとき、実に剣呑な会話が聞こえてきた。

「私は別に、この部屋を貧相だなどと言って難癖をつけているつもりはないのだがね」
　驍宗には聞きなれない、少々高めの、しかしその意志の強さをしっかりと感じさせる声だった。「私の主上だわ」と梨雪が小声で叫んだ。
「じゃあ、何で『花を飾れ』なんて言い出すわけ？」
　この声には驍宗も驚いて歩みを止める。そして額に手をあてて呟いた。「琅燦……」。
　氾王が全く動じる風もなく言う。
「私はこの棚に花を――そうだね、特に赤い大振りの花などを活ければ、この部屋に映えると思ったのだよ。そうすれはこの部屋全体の趣味もよくなるというもの」
　間髪入れず琅燦がきっぱりと言う。
「この部屋はこれで良いんだよ。素っ気無く見えるかもしれないけど、これはこういう趣向をこらしているからなんだよ」
　驍宗は、訝しげに彼を見上げる梨雪に、彼女は戴の冬官長なのだと説明してやろうとした。けれど驍宗の説明が終わる前に、琅燦は氾王にもう次を続けている。
「白い壁に漆黒の調度。この白と黒の引き締まった感じがいいんだ。白と黒の割合だってちゃんと考えて、これが最適だと私が許可を出したんだ」
「なるほど、その美意識はわからないでもないよ。泰王は武骨だが決して趣味は悪くない。そなたも驍宗の臣だけあって、確かに捨てたものではない。ただね、この部屋は客を迎えるための部屋だろう？　時と場合によって趣向を変えてみるのも大事だと思うが、どうじゃえ？」
「へええ。『時と場合』ねえ……。あのさ、前から言いたかったんだけど、範製の飾りの類ってさ、華やか過ぎて身に着ける時と場合が限られてしまうんだよね。庶民の日常生活には殆ど向かない。なるほど氾の品は『時と場合』を選ぶ。要するに、アンタの美意識って、日常の生活から乖離したような代物ほど美しいとでもいうわけ？」
　いかに大司空といえども、他国の王を「アンタ」と呼ばわりなどとんでもない事態だ。そもそも一体誰が何故、よりにもよって「あの」琅燦を客の前に出したのだ？
　いや、と驍宗は軽く首を振った。おおよその見当はつく。この戴王朝で装飾というものに一家言あるのは琅燦だけなのだ。氾王の高い美意識による注文に困り果てた蒿里や李斎が彼女を頼ろうとしたのだろう。
「それはものの一面というものだよ」
　氾王の声は冷静で、聞くものはひとまず安心したが、依然彼が不機嫌なのも明らかだった。
「人は華やかさを求めるものだ。いつも身に着けられるというわけではなくても、机の引き出しにしまっておくだけでも、とにかくその品を持っているということで華やかな気分になれる。範はそのような、持ち主を幸せにする品を作ってきたつもりだよ」
　そう淡々と説いた後、今度は些か挑発的に付け加えた。
「時と場合を選ぶ、という話だがね。それでは聞くが、戴の冬官府が売り出し中の簡素な意匠の飾りで、果たして華やかな儀式につけて出て来られるかえ？」
「…………」
　一国の王と一官人の身分の差などというものを持ち出さず、あくまで己の美意識のみでやりこめようとするところが、氾王の見識の高さを示すのかもしれない。
　もっとも、琅燦だってこのまま黙って引き下がるとも思えない。険悪な沈黙の中、驍宗は衝立の後ろから、少々わざとらしい咳払いをしながら部屋の奥に入った。
　中では氾王と思しき長身の麗人が、胸と顎を後ろへ反らし、首の辺りで扇を構えて小柄な琅燦を見下ろしていた。琅燦の方は顎を深くひき、上目遣いで氾王をぐっと睨みつけている。両者ともすっかり戦闘態勢だ。
　手前に泰麒と李斎とが並んで立っていた。二人の剣幕に口も挟めず、事の成り行きをなす術も無くただ見ているしか出来なかったのだろう。驍宗が登場した途端に二人揃って振り向いた。
　まず大きな反応を示したのは李斎の方だった。ただ、彼女は驍宗ではなく、隣の蠱蛻衫を被った梨雪を見ておおいに驚いたようだった。そして、ややあってから、肩を下ろすと満面の笑みを浮かべた。彼女は心から安堵し、そして蠱蛻衫に映る人物の登場を大歓迎しているようだった。
　李斎は梨雪に駆け寄り、その手をとって本当に嬉しそうに言う。
「ああ、貴女がいてくれれば、とずっと思っていたのです。本当によく来て下さった――ショウケイ殿」

　――ショウケイ？

　氾王はプッと噴き出し、梨雪はくすくす笑った。驍宗は記憶の中を探すのに一拍遅れたが、そのショウケイというのは、かつて氾王の慶訪問時に氾王の趣味を満足させた女史の名であることを思い出し、やはり噴き出した。なるほど。李斎は「ここにいて欲しいと切実に願うけれど、それが適わぬ者」を蠱蛻衫の上に見たというわけだ。
　泰麒は琅燦と共に、いかにもわけが分からないといった風に呆然と佇んでいた。驍宗と目が合うと、泰麒はすっかり悄気返った表情で言った。
「ごめんなさい、驍宗様……」
　驍宗は改めて泰麒に目を注いだ。青年となったはずの泰麒の上に、あの稚かった子供の姿が幻影のように重なって見える。
「僕、ちゃんとお客様をお迎えしようと思ったんです……。それで琅燦の力を借りようと思ってここに呼んでみたんですけど……。ごめんなさい」
　泰麒は半分べそをかきそうな顔をしていた。そこにはもう大人になってしまった泰台輔ではなく、背伸びしようとして失敗に終わった少年がいた。
「構わない。大丈夫だ、蒿里」
　驍宗は泰麒に近寄り、大きな手で泰麒の頭をクシャクシャと撫でてやった。課題に挑んだけれど上手くいかなくて悔しがっていた少年は、それで随分と慰められたようだった。

　――うふふ。
　梨雪の笑い声に、驍宗が振り向く。彼女はまだ蠱蛻衫を脱いでいないのにも関わらず、驍宗はそこに金の髪の愛くるしい少女の姿を見ることができた。その少女は悪戯めいた光を目に湛えて、にんまりと笑っている。部屋の中では氾王が拡げた扇で口元を隠しながら、愉しげに微笑んでいる。琅燦と李斎が唖然としているのも彼には面白いようだった。
　――ふっ。
　驍宗も笑った。最初は息だけで。続いて顔全体で。
　自分たち戴の主従が氾主従のようになるまで、まだまだうんと時間が掛かるだろう。その長い長い時間の存在が、この時の驍宗にはとても嬉しかったのだった。