秀崖の法
一
こつ。こつ。こつ。階段を降りるやや重苦しい足音が隧道の中に響いた。門番の者は足音の主に目を向ける。そしてそれが誰であるのか認めると、丁寧に礼を取った。階段を降りて来た者は、この州の官吏の中で最も優秀であり、いずれは州宰になることが確実視されている若い男だった。
礼を取り終えると門番は若い男に尋ねた。
「お疲れ様です。今日は下に下りる日でしたでしょうか？」
若い男は凌雲山の雲海上に住まいも職場もある。
「今日は臨時で……」
無表情で男が答える。
「ご熱心なことです」
男は自嘲めいた苦笑で応えたのみだった。門番は彼のために扉を開き、男はすっかり日が暮れた外へと歩き出した。
途切れ途切れに堂屋の影が並ぶ。昼間ならここで州の下級官吏達が仕事をしているが、今は人の気配も無くひっそりと静まり返っていた。
後ろで扉の閉まる音を聞きながら男はぽつりと呟いた。
「この逃亡者が」
彼の顔にははっきりと侮蔑の表情が浮かんでいる。周りには誰もいない。彼は自分自身に向かってその言葉を吐いたのだった。
彼は後にしてきたばかりの凌雲山の上を見上げた。夜空に黒々と聳えるこの山の頂に州城がある。そこには今、泰王が国府の官吏と共に滞在している。
泰王はかねてから出来るだけ地方の州城を視察するよう努めていた。ただ、それでもそう頻繁にとはいかない。特にこの二、三年は文州で騒乱があったり、王后を迎えたりと王の方も忙しく、この州に視察にくるのは随分久しぶりのことであった。
彼にとっても、彼がこの州の州侯に仕え始めてから今回が初めての王の訪問である。彼の同僚も含め州の官吏達の多くは、王の尊顔を拝したことが無い。地方官吏にとっては神にも等しい貴人と、それから天下の秀才たる国官たちを迎えて、州城には興奮し浮き足立った雰囲気が満ちている。
しかし、彼はその雰囲気に馴染めなかった。彼は一度王の御前に立ったことがある。それに今回の王の視察に付き添う国官たちの中に、何人か見知った顔があった。彼はそれが憂鬱でならなかった。王にも国官の知人にも自分の存在など気付いて欲しくなかった。だから、彼は雲海の下へと逃げてきた。
――いや。逃げ出したのは今回だけではないだろう。この腑抜けが。
彼は再び自分を嘲る。そもそもこの州に仕官した経緯からして彼らからの逃避だった。過去もそうだったし、これからも一体いつになったらこの逃避行から解放されるのかわからない。
――ずっと逃げ回る。これが俺の人生だ。
彼はもう何度目かになるのか分らない自嘲を繰り返すと、ただ一棟だけ灯りのついている遠くの堂屋の方へと足を向けた。
彼の名を秀崖という。彼は元留学生だった。もっとも元留学生なる肩書きは存在しない――だが秀崖は自分を元留学生としか呼びようがないと思っていた。
戴からは毎年慶か延の大学へ留学生が送り出されていた。大学を卒業して帰ってきた留学生はそのまま国官として鴻基で仕官する。戴の全ての州からくまなくその地方の秀才が選ばれ、彼らも国の将来を担っている自覚を持って大学でも勉学に励むから、戴からの留学生は総じて成績が良かった。国府の高級官吏となってからも、彼らは賢帝の評価を固めつつある泰王をよく援け、他国からも戴の国官は能吏ぞろいだと賞賛されつつあった。
しかし誰もがこのように順調な道を辿るわけではない。大学で卒業に必要な允許を揃えることは容易いことではない。戴からの留学生達がいくら元々優秀で勉学に励む意欲に溢れていても、毎年何人かは允許を揃えきれず大学を卒業できないまま帰国することになる。
大学を卒業できなかった者を、無能であるとは言いきれない。元来優秀であるし、揃えきれなかっただけでたいていは少なからぬ允許は持っている。国府の高級官吏としての採用はないが、彼らにはいくつかの進路が用意されていた。
その一つが鴻基で下級官吏として国に仕官する道である。しかし、この道を選ぶ者は殆どいない。かつての学友が大学を卒業し、同じ凌雲山の雲海の上で高級官吏として働いている。学友達の下で下級官吏として働くことは、彼らの矜持が許さない。
だから彼らの殆どは地方の州城の高級官吏となる道を選ぶ。ただここで彼らの道は分かれる。故郷の州で仕官する者もいるが、そうでない者の方が多い。何故なら、彼らは概して少年の頃から故郷で秀才の誉れ高く、留学生として選ばれた際には盛大に期待を掛けられていたから、大学を卒業できずに故郷に戻るのはこれもまた惨めに感じられるからである。そしてそういった者は自分と全く縁もゆかりもない州で仕官するのであった。
秀崖は、こういった元留学生の典型的な一人であった。彼もまた大学を卒業できなかったとはいえ十分賢明な人物だった。ただ、今その賢さが彼を幸せにしているとは言い難い。彼は、自分の人生の本質が、自分は自分が思うほど優秀ではなかったのだという現実からの逃避に過ぎないことを見抜いていた。この本質を見抜けるほど賢く、そしてそれを忘れたり、何かで紛らわせたりすることが出来ないほど不器用だった。
「先生！」
秀崖は、いつの間にか伏せていた目をその声の方に向けた。一冊の書物を大事そうに胸に抱えた少年が立っている。
「青張、今日も早いな。今日は臨時だから集まりは悪いと思っていたが」
青張と呼ばれた少年は、秀崖には眩しいほど瞳を輝かせている。
「そんな……。僕、先生の講義大好きです。今日臨時で講義が開かれるって聞いたとき、本当に嬉しかったんですよ」
そうか。と一言だけ返して彼は青張と共に再び灯りのついた堂屋に向かった。
人生に躓き鬱々としていた秀崖本人に代わって、何か憂さ晴らしになることを、と考えたのが直属の上司の瀟白だった。瀟白は、雲海の下でこの州の下級官吏を務める者達のために、学問の手ほどきをする私塾を開いてみてはどうかと秀崖に勧めた。
秀崖はさほど乗り気にはなれなかったが、特に断る理由も無く、そんな集まりを定期的に持つことにした。それぞれの勤務が終わった夜に開かれ、参加は自由で、一度だけ覗いてそのままの者も多かったが、年若い者が何人か彼の講義に惹かれたようだった。秀崖も自分の生徒相手に学問を講じていると、微かに、本当に微かだけれども心が慰められるような気がした。
――だが、今日は違う。
今日ばかりは彼は心苦しかった。本来なら今日は講義の日ではなかった。彼は、州城に滞在する泰王一行から逃れるために、今日臨時に開講することにしたのだった。
――私はどこまで臆病者なのだろう。
留学生に選ばれた際に謁見を賜った王。同じ大学で共に学び今はこの国を動かす立場にあるかつての友人。彼らに会うのが惨めで、彼は今夜雲海の下へと逃げてきた。惨めさから逃げてきた――しかし、このため、より一層自分が惨めになったことに、賢明な彼はとうに気が付いていた。
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