秀崖の法

　地方官吏に過ぎない秀崖が、思いもかけず王と言葉を交わすという幸運に恵まれてから幾年かの時が過ぎた。そして、今日瀟白が興奮した面持ちで彼に告げた。
「勅令だ。秀崖よ。お前を国府に登用したいとの勅書が届いたぞ」
　秀崖自身はさほど驚かなかった。泰王は人材を発掘するのが上手かった。もともと乍王朝の始まりからして地方から優秀な人材が登用されていた。後に国を救うこととなった劉将軍、現在の王后がいい例だ。復位後しばらくは絶えていたが、ここのところ国府でいろいろと新事業に取り組み始め、適した人材が地方から引き抜かれていた。
　だから秀崖は今回の件も単に自分の順番が巡ってきたのだ、としか思わなかった。大学を卒業できず国官になれなかったという鬱屈はもうあらかた消えており、秀崖は淡々と登用の件を受け取った。
「それで、私は何をすることになるのでしょう？」
「なんでも主上は少学を拡充するおつもりらしい。そのために作られる部署の長に、長年私塾を開いてきたそなたを就けたいというご意向なのだそうだ」
「少学を？……それは官吏を増やすということでしょうか？」
　少学以上の学校を出たものは殆ど官吏となる。だが必要以上に官吏を増やすのは公費の無駄だ。
「いや、官吏の数は変わらない。官吏になるかどうかとは別に、少学の教員や定員を増やすおつもりらしい」

　秀崖はふと青張の顔を思い浮かべた。彼は秀崖の私塾に通い続け、最後には最古参の生徒として秀崖の助手のような存在になっていた。
　その間に何回か秀崖は、彼の私塾から留学者を推薦するよう命じられた。けれども秀崖は最後まで青張を推すことはなかった。青張は確かに心から学問を愛していたが、学問の方は彼を愛していないことが明白だったからである。
　皮肉にも秀崖は、かつて自分に允許を与えなかった大学教官と同じ立場となってしまった。彼は青張に済まなく思っていたが、学問を愛するもの同士、分ってくれていると思っていた。事実、青張の澄んだ瞳はそのことで濁ることは無かった。――そう、無かったのだ。あの時までは。
　秀崖は苦い記憶を思い起こす。半年ほど前、青張は州吏を辞めて故郷に帰ることになった。老いた両親と共に暮らしていた兄が不慮の事故で亡くなり、青張が代わって老親の許に帰ることにしたのだ。
　秀崖も青張もお互い別れを惜しんだ。その気持ちに偽りはないと秀崖は思う。ただ、青張が暇乞いの挨拶の際、こう言ったのだった。
「でもまあ、州城にいていくら勉強しても僕はうだつが上がらないままでしたでしょうからね。僕は学問に向いてなかったんですよ」
　この時青張の瞳は濁っていた。秀崖は初めて見る青張のその目が悲しかった。
　
　息を吐いて、秀崖は青張の姿を仕舞い込み、瀟白から勅書を受け取った。官吏にならないのに少学で学ぶ――今回の勅令で秀崖が腑に落ちないのはそのことの意義だった。そんな者を増やしてどうするというのだろう。ただ、もしそれが当たり前になったら、澄んだ瞳の青張にも居場所が出来るのかもしれない。そんなことを漠然と思いながら彼は勅書を読み始めた。
　勅書には、この度の新事業の趣旨が述べられていた。曰く、少学に多様な人材を募り官吏を目指す者の視野を広げること、人数を多くすることで互いが切磋琢磨し官吏を目指す者の水準を向上させること、そして――。
　次の文言に彼は目を奪われた。
「法が民を幸せにするものであるなら、法を学ぶ者も民の一人としてそこに幸福を感じるはずである。そのような幸福に接する機会を民に与えること」
　これは――。秀崖は目を見開いて何度も同じ箇所を繰り返し読んだ。これは――これはあの時自分が王に申し上げた言葉だ。いや違う。あれは自分の言葉ではなかった。青張だ、青張の言葉だ。
　王は、大学も卒業できず国官になりそびれた自分の言を、何年の後までこうして覚えていて下さったのだ。覚えて下さっていただけではない。その言葉の背後にあるものを汲み取って下さった。何になれるというわけでなくても、ただ学ぶのが楽しいという者達に居場所を与えて下さったのだ。
　およそ官吏のなかでも最底辺にあったといっていい青張の言葉が、こうやって勅書になって戴国中に公布され、国の制度を形づくっていく。この奇跡にも近い僥倖に、秀崖は胸が詰まる思いだった。
　青張を呼ぼう、いや明日にでも私の方から青張の許に出かけよう。秀崖は忙しく頭を巡らせる。そしてこの勅書を見せてやろう。
　彼が郷里へ帰ったあとどうしているか知らないが、自分が別れの際持たせてやった書物に手を伸ばすような心境ではないだろう。そう、自分が夢破れて帰国したときしばらくの間そうであったように。一日も早く彼に会い、告げてやりたい。私やお前の人生は無意味ではなかったのだと。あの濁った瞳が再び澄んだ輝きを取り戻すように。
　彼は窓の外から青く広がる空を眺めた。雲海上で、あの銀髪紅眼の王が今度は温かく微笑みながら、学問に報われぬ愛情を捧げてきた秀崖と青張の人生を肯定してくれているように彼は思った。そして秀崖の見る幻の中では、隻腕の元女将軍もまた幸福な笑みを浮かべて夫君の傍に寄り添っているのだった。