若木

　自分があの男と同じ年の頃、誰かに心配されるのを悪くないなどとは絶対に思わなかったはずだ。侮られた、と怒り出したかもしれない。あの頃の自分は、自分に何か力があることに自身の存在意義を見出していた。
　息苦しかった故郷を出て禁軍へ入り、自分の能力を発揮する楽しみに耽っていたあの頃は、随分遠いものとなった。あれから、経験というにはあまりに重い出来事を経て、自分も、李斎との関係も変わったのだ、と彼は思った。
　李斎は、相手が何かをする能力があるから愛するのではないのだ。そう、彼女は私に言ったのだ。王としてではなく、一人の男としての貴方の生還を待っている、と。私が優秀有能な傑物かどうかは関係ない。彼女は、ただ母親が子を慈しむように相手を愛する女だ。私が弱くても、いや弱いところがあるからこそ私を愛するようになったのだ。洞窟で見せた無様な私も、その後ただ己の責務を地道に果たしていただけの私も、そんな人生に倦みかけていた私も、みんな私だ。そんな私を、彼女は丸ごと愛しているのだ。
　彼の中で、今まで見えなかった枷がまた一つ外れた気がした。そう、今まで縛られているとも感じなかった枷が。彼は、自分は今、弱くある自由を得たのだと思った。そしてそれはなんと幸福であることか――。

　文州の若者よ。彼は再びあの男に心の中で語りかけた。お前はこのような喜びを知っているか。知らないだろう。お前は自分の持つ力を試すことに、今夢中になっている。
　だがな。驍宗はほろ苦い思いで続ける。誰もが皆、お前が思うように強いわけではないのだ。お前の仲間達には妻や子供を持つものが多いだろう。お前自身はいつも独りで己の強さを信じて疑っておらず、妻や子を持つ人生など到底考えてはいまい。そう、お前くらいの年の私がそうだったように。しかし、多くの者は妻や子、その他大事な他人を自分の生涯に持つようになる。
　驍宗が、文州の若者に「国」を永続させていくことの困難について諭し始めたとき、あの若い男は驍宗を言い負かすことしか頭にないようだった。それに対して、あの男の背後にいた彼の仲間達は明らかに狼狽しはじめていた。
　たしかに仙でない者の命はいつか終る。しかし、妻や子など自分にとって大事な者を残して逝かなければならないのなら、彼らのために残してやりたいと思うはずだ。安定した「国」を。明るい、安心できる未来を。
　「国」を安定させること。それはお前が考えているよりずっと、仲間にとっては切実な問題なのだ。お前が自分の力を試すことにばかりかまけているなら、やがて仲間達の心はお前から離れていくことだろう。
　――そう、かつて私の性急な改革が朝に軋みをもたらしたのと同じように――。

　大きなため息をついた驍宗をみて、泰麒の顔が曇る。驍宗は笑みをつくって、大丈夫だと示して見せた。
　大丈夫だ。あの男はまだまだ若いのだ。彼は、あの叛徒の頭目をこのまま埋もれさせてしまうには惜しいと思っていた。あの男に広い世界と長い時間を与えてやろう。成功と挫折を経験するに足るだけの未来を。そうすれば彼もまた、自分に何か力があるから価値があるのではなく、自分であるというだけで価値があるのだ、と思うことができる日がやってくるかもしれない。驍宗自身がそう変化を遂げてきたように。
　良い伴侶も得られるかもしれないが……。ここまで考えて驍宗は、は、と可笑しそうに声をあげた。でもまあ李斎ほどいい女はそうそう見つかりはしないだろうがな――。
　いきなり笑い出した驍宗を、泰麒は訝しげに見ている。
　そんな泰麒を見返しながら驍宗は思う。そう、蒿里だってまだ若い。もともと責任感が強い性分で、角を失った今、自分は失道の病にかかることさえできないと自分の無力を憂いている。無力さに安住せずいろいろ行動に移しているのは結構だ。が、これは忘れてくれるな。李斎が玄君や西王母に言ったように、麒麟に何ができるかなどお前に期待しているわけではないのだ。お前はお前であるだけで、私も李斎も満足しているのだから。
　お前はどうも物事を思いつめがちでいけない。驍宗は泰麒に悪戯めいた目を向ける。お前がそんなだから、あの、人を食ったような性分の正頼を「じいや」につけてやったというのに。今も暇さえあれば、同じく生真面目な李斎と一緒にいたがるのもよろしくない。李斎のところへいく時間があるなら正頼のところに行かせて、少しはしたたかさも学ばせなければなるまいな。だいたい、李斎はもう私のものなのだから、幼い時のようにあれを独り占めなどしてくれるなよ――。
　それから、「庠学の生徒」。あやつも勉強熱心なのはいい。聞きかじりの知識を披露したがるお調子者ぶりも、まあよしとしよう。が、利いた風なことを言うくせに、朝に在る責任の重さを今ひとつ解っていないのはいただけない。まあ、生意気さでは先輩格の琅燦あたりに手厳しくやり込められていくうち、彼もまた変わってくることだろう――。
　
　――一体どうしてこんなにご機嫌になられたのだろう？
　泰麒には、黙ったまま表情だけ次々変える驍宗の胸中がわからない。かといって、彼に質すきっかけがつかめず、首をひねってただ困惑を深めるばかりでいる。
　そんな自分の麒麟を横目で見ながら、驍宗は、三人の若木達がすこやかに伸びていく未来をさまざまに思い描いて楽しんでいた。