若木

　あの月光の中での李斎の告白を聞いて以来、驍宗にはずっと不思議に思っていたことがある。彼女は何故、今になって自分に想いを寄せるようになったのだろうか――、と。
　あの大乱の前まで、彼は自分の有能さを見せ付けるように生きてきた。彼女が武将として彼の驍名を知らなかったはずはない。そして即位後も、自分はその名に恥じない崇敬に値する王であったつもりだ。彼女の前で、自分がそのように輝いていたときもあったはずだ。だのに、そのときには彼女が彼に特別な思いを抱くことはなかった。
　復位直後に、李斎が彼に罪を告白したことがある。泰麒が蓬莱から帰還したとき、彼女はそれだけでもう満足してしまい慶を離れたくなくなってしまったのだ、と。自分だけ安寧を得、そこで王も民も裏切ろうとしていたのだ、と。疲れた貌で暗い目を床に落としながら、そう彼女は彼に打ち明けた。
　その時の彼女に、彼という男に対する特別の想いはなかったのは明らかだった。彼は一人の男としては、少なからず寂しい思いで彼女の告白を聞いていたのを覚えている。
　ただ、もちろん彼は彼女を責める気になれなかった。矢折れ力尽き、死の淵を彷徨い、利き腕を失っても、彼女は自分よりも戴という国を大事に想っていた。その苛酷な体験を経るうちに、国という抽象的な対象は、一人の愛らしい子供という具象物にまで削ぎ落とされてしまったけれども。だが、それでもなお心を戴に向けようとし、その向かう先が泰麒だったところが彼女らしい、と彼は思った。責めるどころか、そこに彼女が残酷な運命に精一杯抗った痕を見た思いで、彼は痛ましさを覚えずにはいられなかった。
　蓬山に居たときから彼女は、幼く稚かった泰麒を心から慈しんでいた。驍宗は目を細めて昔日の情景を思い起こす。彼女は泰麒の年若い母親のようにも、年の離れた姉のようにも見えた。形だけとはいえ泰麒直属の州師将軍となってからは、自分の腕でこの愛らしい幼子を守ってやりたくて仕方がない、といった風情だった。それは決して泰麒が尊く身分の高い麒麟だから、などという理由ではない。
　彼女は生来、弱いものを見れば助けてやりたくてたまらなくなる性質なのだろう。子供の頃から、おとなしい少女が悪餓鬼に何かされるたびに、敵を討ちにいっていたと言うのだから。
　そう、彼女は情の濃い女だ。驍宗は李斎の特長はそこにあると思っている。いつも彼女は弱いものを愛し守りたくてしかたがない。どんな厳しい状況におかれても彼女はその生来の気質を失わなかった。それを失ってしまえば、自分が自分でなくなるとわかっていたのだろう。そうやって文字通り自分自身を賭けて、泰麒を、王を、そして戴一国を救ってみせたのだ。他人の為にした、などと全く思うこともなく。これを投げ出し戴が滅んでしまったら、それは自分のせいなのだ、とまで思いつめて。
　そして今度は――この私というわけか。
　泰麒から彼の抱える危うさを聞かされて、それで彼女は自分の許に駆け込んできたのだと彼は察した。彼が歯車としての生に倦み疲れて咄嗟の際に生を手放しかねないと案じ、そんな彼を助けなければと思って、自分の想いを打ち明けに彼女は来たのだ。
　月光を浴びた彼女の潤んだ瞳を思い出すと、彼は一瞬目を瞑った。それは彼の身体を、甘く切ない震えが駆け抜けていったからだった。
　一時の激情に溺れてのことだとは思わない。彼女は確かに情の濃い女だが、自身が他人に引き起こす結果に対して誠実に向き合う強さと賢さを持っている。だからこそ、覿面の罪を唆そうとするその寸前で思いとどまることができたのだし、その誠実さで景王をはじめとする各国王の信頼を得ることができたのだ。
　だから、あの月光の中での告白も軽はずみに行ったものではあるまい。あの月夜の前から――それがいつからなのかわからないけれども――彼女にとって自分は特別な存在になっていたのだ。そう思うと彼の胸に甘やかな思いがひろがっていく。
　しかし、そこにはまた痛みも混じっていた。彼は自分に都合のいい夢想だけで思考を終えようとはしなかった。
　彼女は彼に恋をしても、打ち明ける気は本来なかったはずだ。彼には分かる。彼には、戴国が再生するまで自身の幸せを求める自由などないのだから。そして、誰よりそれを分かっているのが彼女なのだから。
　それでも、彼が危ういと思ったから、彼女は彼を守らなければと自分の恋を明かしにやってきた。
　これではまるで、私と蒿里とは同じではないか――。彼は甘く苦笑する。
　誰が思うだろう。かつて武勇で鳴らし凄まじい覇気をもって君臨し、今でも周囲は遠慮がちに接するこの自分を、あの愛らしく稚かった泰麒と同じように心配する者がいようとは。守ってやらなければ、と血相を変えて飛び込んでくる女がいようとは。
　――悪くない。それも悪くないな。
　
　彼の顔には大きな笑みが浮かんでいた。側に居た泰麒が不思議そうに物問いたげな顔をしている。
「悪くない。誰かに心配されるというのも悪くないものだ。そう思ったのだ」
　泰麒は少しの間小首をかしげていたが、ちょっと口を尖らせて文句を言った。
「でも、心配する方の身にもなってください」
　ああ、そうだな。と返して彼は泰麒を見る。彼はまた、泰麒と同じ年のあの若者を思い起こし始めた。