月光

　李斎もまた事態が以前のものと酷似していくことに、不吉な思いを抑えることができないでいた。
　いよいよ明日が、驍宗が文州へ向かって鴻基を立つという夜。李斎は最初から眠ることをあきらめてしまった。
　阿選のような者はもういない、通常の乱なら主上の身を案じる必要はないのだ、と頭ではわかっている。だが、それでも彼女の心は落ち着かない。彼女は、部屋の中をうろうろ歩き回ったり、椅子や寝台に腰掛けたりを繰り返して何とか心を静めようとしていた。
　しかし、窓から差し込む月の光が、薄い雲にでも遮られているのかあまりに朧で、それが彼女の胸中の漠然とした不安をよりいっそうかき立てる。
　苛立ちをこめて深々とため息をついたところに、下官が泰麒の来訪を告げた。

「台輔。よくおいで下さいました。しかし、このような時間に……。やはり、台輔もおやすみになれないのですか？」
　彼は普段から彼女と親しく、話しこんでそのまま夕食を共にすることはあったが、夜が更けてから訪ねてくるのは珍しいことだった。
「それもありますけど……。実は、今まで主上に僕も文州に連れて行って下さいってお願いしていたんです」
　下官に命じて簡単に茶菓を用意させ、二人は卓についた。
「それで……主上は何と」
「その必要はないって随分言われましたけど。でもやっと聞き届けて下さいました」
「では、台輔も文州に……」
　李斎はそう言って左手を胸に当てた。
「しかし、なぜでございます？　時と場所が似通っておりますけれども、今回はまさか前回のようなことはありますまい。それに主上は話し合いにいくご予定ですが、戦乱となった時に備えて禁軍を率いて行かれます。そう、戦乱になりましたら、むしろ台輔のお体にさわりがあるのではないでしょうか」
「李斎にはいつも心配を掛けてばかりでごめんなさい。でも、僕はもう麒麟ではありません。戦乱になっても血の穢れが障るということはないでしょう。それに麒麟でなくても、西王母に清めていただいた傲濫がついています。僕自身の身は守れますし、お側についていれば主上の身も守れます」
「ですが……。通常の乱であれば主上お一人で無事鎮めることがお出来になりましょう」
　李斎は、先程から自分に言い聞かせている客観的な事実を述べて、泰麒まで危険な土地に赴くのを止めようとした。
「ええ、驍宗様の武将としての器量を考えればそれはそうかもしれません。でも僕が心配しているのは……」
　ここで泰麒は言葉を探した。
「何というか……人としての驍宗様が危うく見えて……。李斎はこの頃そう感じることはありませんか？」
　問われても彼女は返事できなかった。このところ自分は、自分の中の恋心を持て余すばかりで、肝心の驍宗自身についてまで気を配る余裕がなかった。
「危うい……。それは、どういう……」
「驍宗様は、とても慎重に政務を執っておられると思いませんか？」
「ええ……。確かに」
　李斎に話していた原案は随分大胆だったのに、いざ朝議を経て事が決まってしまうとその政策はすっかり平凡なものに変わってしまっている、ということはよくあった。
「しかし、それは先の大乱が、主上の性急な改革によって引き起こされた面もあるという反省に立っておられるからでしょう」
「ええ。それもあると思います。でも、その他にも理由があると思います」
　泰麒は悲しげに視線を下げた。
「僕が悪いんです。僕が麒麟じゃないからいけないんです」
「台輔……」
「ちゃんとした麒麟なら、失道することで王の失政に警鐘を鳴らすことができます。でも僕にはそれができない。そして、もし主上に万一のことがあっても僕には新しい王を選べない。新しい王を得るためには、僕が死んで蓬山に新しい泰果が実るのを待たねばなりません」
　泰麒は顔を上げ、泣きそうな顔で李斎を見て続けた。
「僕の命はどうだっていいんです。でも、戴は随分立ち直ってきてはいても、まだ空位の時代を何年も過ごせるほどの蓄積はありません。それに、僕を殺すとなるとみんなだって苦しむんじゃないかって思うんです」
　私達よりどうかご自分のことをお考えになってください、そう李斎は言いかけたが、泰麒はそれより先に続きを話し始めた。
「ですから、驍宗様は絶対に失敗できない。少なくとも驍宗様はきっとそう思っておられるでしょう。だから、ひたすら無難に無難にと政務をとっておられる」
「ですが……それは戴の実情を汲んでおられるということでは……」
「そういう面もあると思います。でも驍宗様のご気性を考えると……。あの驍宗様があちらの官にもこちらの官にも賛同が得られるように、そう、八方美人のように振舞われているのを見ていると……」
　驍宗と八方美人。言葉のあまりの組み合わせの悪さに、李斎はようやく泰麒の言わんとすることがわかりかけてきた。それだけの無理を驍宗は強いられているということだ。
「あれほど覇気に溢れ苛烈な方なのに、あの強烈な個性を押し殺してずっと生きていかなければならない。玉座に座って、ただ無難にその役割をこなすことだけを求められる。そう、これではまるで……」
　泰麒はここで再び言葉を探した。
「国というからくりが動くための部品、そう、歯車のようだと思うのです」
　――歯車。この言葉は李斎の胸に重く突き刺さった。
　さらに泰麒は話を進める。
「驍宗様はそれでも自身に課せられた運命を受け入れておられると思います。でも、心の片隅に、歯車としての人生に倦む気持ちも抱えておられるんじゃないかと思うんです」
「生に倦む……」
「もちろん、李斎にだって、僕にだって、それからご自身にだって、そんなことは決してお認めにならないと思います。ご自分でも、自分は生きなければならないと固く誓っておられることでしょう。その生がどれほど索漠としたものであっても、生きなければならない、と。でも、自分の気持ちって自分の意思で完全に制御できるものではないですよね」
　李斎は黙って頷くよりなかった。ここのところ、この自分自身が恋という感情に振り回されているのだから。
「僕たちが慶の金波宮にご厄介になっていたとき、内乱がありましたね？」
　急に話題が変わって李斎はとまどいながら、ええ、と応えた。
「あのとき、どうして抵抗しなかったのか中島さんに聞きました。虚脱したのだ、って彼女は言っていました」
　李斎に訴えるように泰麒は言う。
「驍宗様は確かに話し合いにいかれます。でも、何が起こるかわからない。文州ってもともと治安のいい場所じゃないですし、気性の荒い者も多いと聞きます。もし、ふいに襲われるようなことがあったら、そしてその時の驍宗様に、自分は生きるべきだという思いより、生き飽いたという虚脱感が出てしまったら……」
「……それで、主上が危ういとお感じなのですね」
「そうです。だから僕が、傲濫と一緒についてお守りしようと思うのです。驍宗様は、僕が今言ったことを全面的にお認めになったわけではありません。でも、それで僕の気が済むのなら、ということでお許し下さいました」
「…………」
　沈黙する李斎に泰麒は問いかけた。
「李斎も驍宗様が心配でしょう？　きっと自分もついて行きたいって願っていると思います。でも、こうして僕も行くことになりましたから。僕が一生懸命李斎の分まで驍宗様をお守りしますから。だから安心して待っていてくださいね」
　このことを仰るためわざわざ訪ねて下さったのか。李斎は泰麒の気遣いに心から感謝し、そして、どうか主上も台輔もご無事で戻られますよう、と心の底から祈った。