月光

　春はまだ浅く、夜更けは冬の初めと変わらない。泰麒は白い息を後に残しながら遠ざかり、李斎はそれを見送った。
　自室に戻りながら、ついさっき彼女の胸に重く突き刺さった言葉を取り出す。
　――歯車。
　彼女は額に手を当てながら、そろそろと自分の椅子に座り込んだ。
　他の官人達同様、彼女もまた、あの悪夢の幕開けと今回の事の次第が重なることに禍々しい思いを抱え、こうして眠れないでいたのだった。加えて、今さっき泰麒に知らされた驍宗の心中を思うとなおさら気持ちは落ち着かないものとなる。
　彼女の目には、驍宗は以前の自分を取り戻し存分に活躍しているように見えていた。しかし、彼の半身である麒麟は全く違う姿を捉えていた。自分の中から驍宗が消え去っていくような気がして彼女は焦りを覚え、彼を失うまいと懸命に考え込み始める。
　そう、言われてみれば確かに違う。李斎は、花影が大乱以前、驍宗を奔馬のようだと言ったことがあったのを思い出した。その背に跨っているのが怖かった、と。そうだ、あのお方が本来の力を思うままに解き放って疾走すれば、あまりの速さに誰もが不安を覚えずにはいられまい。
　もともとあの方は、我々の理解の及ばないほど大きな器量をお持ちだった。かつて自分は主上に対して「極めて優れていることは、極めて悪いことと実は同じではないか」と感じたことがある。それほどまでにあの方は突出した人物だったのだ。
　我々が今、こうして主上のご活躍を理解し、目を細めて見守っていられるのは、主上が凡人の理解の及ぶ範囲にまで合わせて、その足を緩めているからだ。
　主上が無難に政を行っているおかげで、着々と戴は復興へ向かっている。この国の政には、何かを新しく大胆に始めるというより、できるだけ緩やかに混乱なく国を昔の姿に戻すことが第一に求められている。泰麒がもう麒麟でないことからしても、無難が一番であるのは確かなのだ。
　しかし、当の主上自身の気持ちはどうだろうか。その本性ともいえる大胆さも苛烈さも、国の為に封じておかなければならない。これでは彼が彼である意味がない。まさに歯車そのものだ。
　これがいつまで、と期限の切れるものならずっとましだろう。が、このような状態は、どうなったら終わりと言うことができるのか見当がつかない。もしかしたら、永遠にこのままなのかもしれない。もしも、とびきりの駿馬が厩に繋がれたまま一生暮らさなければならないとしたら、その駿馬自身は何を思うだろう――。
　彼女は、驍宗に言いようのない痛ましさを感じた。あのお方には、元に戻すという達成感のない後ろ向きの作業を、無難に何事もないようこなすという閉塞感の漂う毎日がこの先延々と続くのだ。ああ、私があの洞窟であのお方に強いた人生はこうも虚ろなものだったのだ。
　台輔の危惧ももっともだ。生か死かという境を、本人の生への執着が分ける瞬間がある。武人として生きてきた彼女は、武人にそんな一瞬がやって来うることを知っている。そんな刹那に、彼は生を選んでくれるだろうか――。
　こう考えて、彼女はふと思いついた。
　もし私が、主上に生きていて欲しいと、なりふり構わず懇願したらどうだろう。私は貴方にこの国の歯車として生きていて欲しいと思っているわけではない、と。単に王だからという理由ではなく、私にとって、とても大切なかけがえのない方だから生きて帰って欲しいのだと、そう打ち明けてみたら――。少しは私を憐れんで、ほんのわずかでも生を選ぶ方に傾いて下さらないだろうか。
　自分自身の考えの行き着いた先に、自分で当惑して彼女は嘆息する。私は何を考え出したのか。私は、自分があのお方にとってさほどに重みのある存在だと自惚れているらしい。そう自嘲すると、彼女は立ち上がり窓辺に向かった。
　春まだ浅く冬枯れたままの園林が、弱々しい月の光にうっすらと浮かび上がっていた。それを眺めながら李斎は再び自分の考えに耽る。
　自分の想いを打ち明けるのを躊躇ってしまうのは何故だろう。あの方が生を選ぶための重しに僅かでもなれればそれで良し。なれなくてもそれで構わないではないか。自分が少しばかり傷つくだけのことなのだから。
　いや、その傷が怖いのだ。自分にはあの方に特段の重みがないとわかってしまったら。それが怖くてたまらないのだ。
　しかし、これこそ自分本位じゃないか。自分が傷つくより、あの方の命の方がずっと大事なのだ。たとえ役に立てなくても、役に立てる可能性があるならそれに賭けてみるべきではないのか。
　そうだ、これは自分の責任なのだ。あの洞窟で私こそがあの方をこの生に引きずり出したのだから。たとえその結果、自分が傷つくことになったとしても――。
　こう考えると、彼女は自分の気が変わらぬうちにと急いで外出の用意を整えた。そして、肌寒い夜の園林の中を弱い月の光を頼りに、彼の許へ向かい始めたのだった。

　その道中も彼女の心は振り子のように振り動いていた。やはり行くのは怖い。もし自分の想いが不遜だと驍宗の不興をかってしまったら、今までのように共に過ごす時間さえなくなってしまうかもしれない。そう怯みかける心を、行かなければならないのだ、と奮い立たせながら彼女は正寝が見えるあたりまでやってきた。
　彼の執務室の灯りは消えていた。どうせ私にさほどの重みはないのだ、賭けに出ても無駄なだけだ。彼女の心は帰ろうという方向に傾く。しかし、それでも決心はつかない。彼女はしばしそこで足を止めて佇んでいた。
　その時、雲が切れ、月の光がさあっとさした。その光に正寝へ向かう道が白く浮かび上がり、まるで彼女をいざなっているかのように見えた。行こう、行かなければ。その思いは半ば月の光に浮かされ、いささか狂騒じみてさえいた。
　部屋に入ると、煌々とした月の光が床に窓の格子の影を落とし、一面に幾何学模様が広がっていた。驍宗は執務があまりに忙しいため、その奥にある小部屋を自分の寝所としてしまっていた。差し込む月光の中を、彼女は彼の寝所の扉にむかって、どこかおぼつかない足取りで進む。
　その扉に触れるだけ。そして主上が安らかにお休みになっていることを確かめるだけ。そう彼女は思いながらその扉の前で立ち止まった。
　突然、刀身が月の光に煌くのが目に飛び込んだ。彼女はっと息を飲み、その刃を見つめた。その奥で、銀髪の男が赤い眼を光らせて刀を構えていた。