宝剣

　驍宗はため息をついて、李斎が残していった剣を見た。骨と皮ばかりになった手で拾い上げ、腰を下ろした自分の前の地面にそれを突き立てた。さながら剣と差し向かう形で、彼は王になれなかった男について考え始めた。
　
　あの男はこう言っていた。
「王などかつても居たし今もいる。そんなありきたりなものよりもっと　大きなことをして見せてやる」
　そして、牢の中の驍宗が訊ねもしないのに阿選は自分の暗い野望を語って聞かせた。
「私は一国を滅ぼして見せる。道を失った王が国を滅ぼすほどひどい荒廃を招いた例はあるだろう。しかし、わざと滅ぼそうとして本当に滅ぼしてのけた者はいないな。私は、開闢以来、初めてそれをやってのけた者になろう。お前は最後だ。最後まで生かしておいてやる。そして、自分の国に一枚の田もなく一人の民さえいない様を、その目で確かめさせてやる。その後」
　生かしてやるか殺してしまうか、それはそのときの自分の機嫌次第だな――。そう言って彼は甲高い笑い声を洞窟に響かせながら帰っていった。
　
　自分がもし、あの二人と親しくならずそのまま戴へ帰っていたら、どうだったろうか。自分は非凡なのだ、と単にそれを誇示したいがために、国を滅ぼす。これはかつての自分ならやりかねなかった。彼と阿選は似ているとよく言われたものだったが、確かにそうだった。
　驍宗は再びため息をついた。今は王と逆賊と、と対極の立場に立っているがかつて二人はよく似ていたのだ。では、なぜ今はこうも違うのだろう。その問いの答えは簡単だった。彼はあの二人を知り、愛した。それが彼と阿選との間に決定的な違いをもたらしたのだ。
　蓬山を下る途の上にあっても、彼は未練がましかった。自分は王ではない。この事実が眼前にあっても、自身が得た幸福にずっと浸っていたいという願望は消えなかった。そして、そんな自分を許せなかった。元来の彼なら、苛烈にして凄まじい覇気を備えた名高い驍将の彼なら、己に打ち克ちそんな未練など断ち切ってしまえただろう。けれども、二人を愛したことで彼はこの点においては実に凡庸な人間となった。
　彼の中に、あの二人が自分以外の者に仕え、自分以外の者と家族のように親しくなるのを見るのは耐えられないという単純な嫉妬がまず芽生えた。次に、その嫉妬の為に自分がどれほど恐ろしい力を振るってしまうのか、それを懼れる気持ちが生じた。そして、その恐ろしい力であの二人に害をなすことだけは決して無い様にしたいと強く願った。そのためには、自分は、あの二人が戻る戴へ戻ってはならない。
　もっとも、あの時点では彼は自分の心の内をこのように整理して捉えてはいなかった。ただただ、理性が把握しようとしても追いつかないほど激しく、戴へ戻るのは嫌だと感じ、自分が戴を去るという形で、断ち切れない未練から逃げようとしたのだった。
「私は恥をかくのに慣れていない」
　確かに彼はそんなことを言ったように思う。ただその言葉は、自分が何故戴を去ろうとするのか、どうして己の未練を断つことができないか明確に出来ぬまま、もし戴に帰ったら何を不快に感じるだろうかと考えて、真っ先に直面する不快を挙げただけである。恥をかくのが不快であったのは確かで、自分は無駄に誇り高かった人間であるのは事実だけれども、それは根本的な理由ではない。
　帰途について初めてのあの夜、野営の焚き火を眺めながら、彼は自分の先行きについて思いを巡らせていた。彼の剣の腕なら食べていくのに事欠くことはまず無いと言って良い。けれども、昇山以前に登極を夢見て生きてきた頃と同じ情熱を、人生に対して持つことはこの先もうないだろう。その後の生は、生きながら徐々に自身が滅んでいくようなものになるはずだった。
　ところが、その夜。幼い子どもと女将軍を愛し、未練を克服するより逃げることで解決しようとしたこの凡庸な男の前に、夜目にも麗しい黒麒麟が降り立ったのだった――彼を王とするために。