賭事

　冬の木枯らしが窓を叩く。夜空に一つの雲もなく月は煌々と光っていた。部屋の中ではつい先ほどまで、月の光と灯した明かりを頼りに二人の男が地図を眺め、何やら話し合っていた。
　泰王驍宗にはゆっくりと食事をとる暇はない。今夜は延王との会食で比較的まとまったものを食べているが、それでも円卓に地図を広げて土木工事の打ち合わせをしながらのことであった。この席で、その打ち合わせを早々に終わらせると、延王が吃驚するようなことを言い出したのだった。貴国の瑞州師中将軍に求婚した、と。
　驍宗の顔に怒気に近いものが一瞬現れたが、彼はそれをさっと引っ込めると、ただ純粋に驚いた表情だけを表にだした。
「……それで彼女はなんと」
答えたのか、と彼は延王に尋ねた。
「返事は明日、と言ってある」
延王は答えた。
　それからしばらく二人の男の間に沈黙が降りた。片方の男は見るともなしに卓上の地図の上に視線を落としていた。もう片方は自分で自分の杯に酒を注ぎ、口に運びながら相手の表情を伺っている。
　視線を上げて驍宗が延王を再度見つめて口を開いた。
「……李斎の神話は戴が纏まる為に必要だと、以前仰っていたと思いますが……」
「救国の英雄は、隣国の王に見初められて末永く幸せに暮らしましたとさ。こういうのも、神話の結末としてそれなりに座りのいいものだろう？」
　延王の答えに、驍宗は胸の内でため息をついた。
　あまりに神格化された自分に戸惑う李斎に、あれは神話だ、別人の話だと思え、と延王が言い聞かせたことは知っていた。しかし、それで気持ちを切り替えられる程あれは器用な女ではない。それくらい器用に生きていてくれたなら、と驍宗は思う。そうだったなら、利き腕とそして武将としての自分の将来とを失うことはなかっただろうに。
　だが、彼女は愚直なまでに忠義を貫きそれらを失ったのだった。そして、その忠義を捧げた主とは他ならないこの自分である。言い換えれば、自分が彼女の片腕と将来を奪ったのも同然なのだった。李斎の神話の結末で、見初めるのは隣国の王ではありえても、自国の王すなわち自分というのは、確かに収まりが悪いというものだ、と彼は自分で自分を嘲笑った。自分には彼女を妻に望む権利はない。
　しかし、それでも彼女の幸せを願う権利はまだ残っているはずだ。
「あれは、後宮で着飾って暮らすことに幸せを見出すような女ではありません。延王におかれては、実の気持ちはおありか」
　詰問するような強い口調だった。
　延王は、ほう、という表情を浮かべたが、淀みなく答えた。
「泰麒捜索について尋ねるべく蓬山に使いを立てるとき、俺は最初李斎を外して考えていた。彼女はまだ病み上がりだったからな。だが彼女は自分が行くと言って聞かなかった。『いとうていろ』と俺が言ったら『治りました』と言い放った。その目の強さが心に残った。いい女だ、とその時思ったのだ」
「……成る程」
　短く答えて驍宗は再び視線を落とした。成る程、彼女らしい話だ。その時の彼女がどれほど美しかったか容易に想像がつく。それから今度は目を窓に向け静かに光る月を振り仰いだ。この男は李斎の美質をよく分かっている。この男なら。剣の腕も自分より優れ、五百年王朝を率いてきた実績のあるこの男なら。人を竦ませてしまう自分より、緊張を解いてしまうような陽気さを持ち合わせるこの男なら。彼はただ月を眺め続けていた。
　延王は、窓外を見つめる男の顔を見ながら杯を重ねる。ほほう、こんな表情もできるのだな。玄英宮に駆け込んで来た時は、骨と皮ばかりに痩せこけながらその紅い目だけはギラギラと光っており、不気味とすら思った程だ。今はかなりの痩身とはいえ、多少肉がつき、かつての眉目秀麗な容貌を取り戻しつつある。この容貌で、こんな切なげな表情を見せてやったら落ちぬ女など居ないだろうに。なんとも物堅いことだ。そう思いながらひとしきり酒を楽しみ、それから次の手を繰り出す。
「しかしだな、驍宗殿。俺は明日にはこの縁談を断る」
　さすがに今度は驍宗も不快を隠しきれなかった。
「それは一体……」
　と不審そうに尋ねる驍宗を目で制し、卓に肘をついて身を乗り出して顔を近づけると延王はこう言った。
「賭けをしないか？　驍宗殿」