賭事

　真夜中をとうに過ぎ、しんしんと冷気が足元から忍び寄る。それでも赤茶の髪の女は夜着の上に上着を羽織っただけのまま、寝台に座して、月明かりが窓枠の影を床に落とすのを眺めながら、じいっと考え込んでいた。
「李斎。起きているのだろう」
　突然窓の外から男の声がして、李斎は飛び上がるように立ち上がった。
「主上！」
　邪魔するぞ、と声を掛けただけで、驍宗は窓を乗り越え部屋に入ると、手近にあった椅子を引き寄せ寝台の方へ向け、さっさと座ってしまった。それから、呆然と立ったまま彼を見下ろしている李斎に、寝台に戻るよう促した。
　彼女は寝台の上、彼の真向かいに腰を下ろすが、自分に降りかかった椿事について何をどう話していいのか分からず、目を伏せて言葉を捜す。
「延王から求婚されたのだろう。ご自身から話は伺っている」
　驍宗の方から簡潔に口火を切った。
「で、どうする？」
「……どうすると言われましても……」
　どうしたら良いのか教えて欲しいのはこちらの方だ。そう思いながら男の顔を伺う。月明かりが彼の端正な顔を暗闇に浮かび上がらせてはいたが、そこには何の表情もなかった。
　そう、この方に訊ねるようなことではないのだ。これは私自身の話なのだから。そう思い至っても、心細いような気持ちは消えない。そんな自分を叱りながら、彼女は先ほどから自分に言い聞かせていることを話始める。
「私には利き腕がありません。武人としてお役に立てることはもうございませんでしょう。戴は新しく生まれ変わろうとしております。なれど、未だ貧しく、雁をはじめ諸国の助けで成り立っているようなものです。私のような体の動かない者がいつまでもお世話になるわけには参りません。私はもう戴にいるべきではないのです」
「だから、戴を出たいのか」
「……はい」
　もう一度彼女は男の顔を探る。しかし今度もどんな表情も彼の顔から見出すことは出来なかった。
　それより、そんなことに傷つく自分に気づいて彼女は戸惑う。そんな戸惑いから逃れるように、自分には戴に居場所はないのだ、と同じことを彼女は切々と訴えた。男はただ無言で腕を組み、女を見つめているばかりだった。
　何度も何度も繰り返し同じことを女は掻き口説く。自分はもう戴にはいるべきではない、と。しかし、男はそんな女よりむしろ外を気にしているようだった。
　確かに夜明けが近づいてきている。こころなしか夜の暗さが抜けていこうとしている。この方にとっては、朝から始まる政務の方が重要なのだ。このお方はこの国を牽引していく立場にあるのだから。もう何の役にも立たない自分にかまけている時間は少ないのだから。戴を去る自分より、過ぎ行く時間の方が気になるのは仕方がないのに、それはわかっているのに、胸に広がっていく悲しみを彼女は抑えることは出来なかった。
　空が白み、もう一番鶏が時を告げようとする頃、ようやく驍宗が口を開いた。
「……それで……」
と間をあける。何か口に出すのを躊躇っている風でもあった。
「延王ご自身についてはどう思っているのだ？」
「は？」
　話題が切り替わって、今度は李斎が黙ってしまった。ひどく複雑な表情を取り繕おうともせず驍宗は続ける。
「泰麒の帰還について蓬山を訪ねただろう。その時、延王はそなたの体を思って止めようとなさったそうだな。それでもそなたは『もう治りました』と言い放って出かけていった。その姿が良かった。そう延王は言っておられた」
「はあ……」
　確かにそんなこともあったような気がする。あの頃自分には戴を救うという使命があった。はっきりと課せられた役割があったあの頃の方が、自分は幸せだったように思う。そう考えてしまった自分を慌てて咎める。戴は今再生しようとしている。あの時の方が幸せだったなどと思うとは、とんでもないことだ。そう自分の追想を荒々しく振り落とす。それと一緒に驍宗の問いの内容も降り落としてしまった。
「でも、私にはもう果たすべき役割はありません。もう私は…」
　李斎が皆まで言い終える前だった。一番鶏が鳴いたのは。彼女は、ああ鳴いたな、くらいにしか気に留めなかった。しかし驍宗は違った。はっと身じろぎをすると、窓の外を向いた。そうして、ふうと大きく息を吐き、満面に大きな笑みを浮かべて再び彼女を見た。
「どうやら、私は賭けに勝ったようだ」
「はあ？」
　それまで床を踏みしめていた足をひょいと組むと、苦笑いをしつつもどこか楽しげに驍宗は説明し始めた。

「賭けをしないか？　驍宗殿」
　延王はそう言った。
「賭けとは……。何を賭けにするおつもりか」
「李斎だ。どうせ、あの女のことだ。雁に嫁ぐといっても、自分は戴に居るべきではないから、とかそんな理由だろう。自分はもう役に立たないとか、居場所がないとか、くだくだ述べるに違いない。それでいてだな、俺自身のことなど一切考えてはいまい。戴から出られるなら相手がどんな男でも、そうだな例え範王のような男にだって、嫁に行きかねんぞ、あの女は。いくらなんでもひどすぎないか？　そんな理由なら、俺が断ったって仕方ない、というものだ」
　それは、確かに。範王云々はともかく、驍宗はそう答えるしかなかった。
「驍宗殿はこれから李斎に真意を質しに行くつもりだろう？」
「ええ。……彼女は戴にとって大事な者ですから」
　自分にとって、だろうが。そう思っても口にはださず、延王は続けた。
「これから夜が明ける前に、そう、一番鶏が鳴く前に、彼女が俺について何か言うかどうか。これを賭けにするのだ」

「……あんまりではないでしょうか。これではまるで、人の気持ちを弄んでおられるような……」
「悪趣味ではないか、とは申し上げた」
　李斎の控えめな抗議を驍宗はあっさりとかわした。
「しかし、これはそなたも悪い。いくらなんでも延王に失礼というものだろう。男の心を弄んでいるという訳ではないが、無頓着に過ぎる。私のほうから延王の話を持ちかけたというのに、そなたときたら」
　渋い顔を作っているものの、目だけは嬉しそうに彼は言う。李斎にはもう返す言葉はなく、ただ気が抜けたまま黙っていた。