子供の庭

　日が傾く頃になってやっと朝議が終わった。出席していた者はげっそりとした面持ちで退出していく。正頼だけが含みのある笑みを浮かべてその場に残っていた。
「正頼」
　驍宗が何か言おうとするのに皆まで言わせず、正頼は愉しそうに言った。
「おや。私との用向きは私用に劣るのでございますか」
「…………」
　この日は朝議の後、冢宰に諮るべき案件があったのだ。
「……時間を夕刻にずらして貰いたいだけだ」
　正頼はむっとした顔の驍宗ににこやかに答えた。
「よろしゅうございますよ。その代わり、と申し上げるのも何でございますが、私もついでに会わせていただいても構いませんかね？」
「……誰のことだ」
「王后のお若い頃にそっくりだという少女でございますよ。今から王后のお部屋まで会いに出向くおつもりでしょう？」
　仕事の方は後回しにしてまで、という言葉の方は正頼も慎重に飲み込んでおく。そして驍宗が口を開く前にすかさず加えた。
「さ、急いで参りましょう。ひょっとしたらもう保翠院に帰ってしまう頃かもしれません」

　正頼と驍宗は連れ立って王后の執務室へ向かう。夕刻が近くとも夏の日脚は長い。ゆっくりと西に向かうぎらつきのない穏やかな明るさと、建物の作る静かな影とを幾度か通り過ぎ、二人は部屋に着いた。
　中から王后と誰かが談笑する声が聞こえてきた。正頼は保翠院の子供達がまだいるのだと思った。しかし驍宗に従って衝立の中が見えるところまで来て見ると、王后李斎と台輔とが二人でにこやかに会話を楽しんでいるところだった。
　正頼は中に入ろうとしない驍宗に目をやった。驍宗は目を細めて二人を眺めている。
「微笑ましい光景ですな」
　正頼が小声でそう囁くと、驍宗はふっと笑んで頷いた。

　正頼も今度は何の含みもない微笑みを浮かべて素直にこの二人を見る。昔から、そう、正頼が台輔と知り合う前からこの二人は仲睦ましかった。
　――以前は母子のようにも見えたものですが。今は台輔が大人になられて……。
　泰麒の「じいや」を勤めていた正頼としては、泰麒が大人びて見えるのが嬉しい。いやいやそう見えるだけではない。尊い麒麟にあるまじき苦難を乗り越えてこられたせいか、台輔はたいそう思慮深い青年にご成長された。それにこちらの世界の政にも慣れ、宰相としての務めもご自分一人でこなされるようになって年々頼もしくなってこられたように思われる。
　――身びいきだけではないのですよ。本当に台輔は大人になられた……。
　李斎殿の方は逆に少しずつ若くなっているように見える。そう正頼は思った。若返ったというのではない。以前武人であった頃の方が、命を遣り取りする者特有の緊張感のせいで年齢が高く見えていたのかもしれない。その時分でも温和な印象を与える女性だったが、自らが戴へ運んできた平和な日々に漸く慣れて彼女の持つ穏やかな性質が更に前面に出てきたようだ。
　――本当に、仲の良い姉弟のようでいらっしゃる。
　実はこの時、「恋人同士にも見えないことはないな」という印象も正頼の頭の隅をチラと掠めたのだが。ただし正頼がそれを思い出すのは翌日のこととなる。

「みんな本当に退屈しきっていて……」
　泰麒が李斎に今日の朝議の様子を話して聞かせているようだった。
「将軍達はもぞもぞしているし、琅燦は落書きに夢中だし、天官長まで眠そうにしていたし……」
「まあ」
「楽しそうだったのは正頼だけでした。きっと他人が退屈そうにしているのを観察して自分の退屈しのぎにしていたんでしょうね」
「それは正頼殿一流の退屈のしのぎ方ですね」
「全く。正頼らしい」
　泰麒と李斎はお互い顔を見合わせてくすくすと笑う。
　正頼は鼻白む思いで驍宗の顔を窺う。驍宗は知らぬ顔だが、自分を見る彼の目に、正頼は声にならない笑い声を聴いたような気がした。
「ですから、花影が『もうお開きに』って提案したときはみんなほっとした顔をしていたんですよ。それなのに驍宗様ったら」
　ここで泰麒は一息入れる。そして自分の主の声音を上手に真似て見せた。
「『私用を朝議に優先するわけにはいかぬ』、とこうですからね。みんな本当にがっくりしていましたよ」
「それは……何とも主上らしい仰りよう……」
　二人ともころころと声を上げて笑いあう。
　正頼はにんまりと笑いながら驍宗を見た。しかし正頼の視線などさっさと遮り、驍宗は二人に声を掛けた。
「楽しそうだな」
　二人は揃って驚き、お互い顔を見合わせて肩を竦めた。

「保翠院の子たちはもう帰ってしまったのか？」
　驍宗が愛妻に尋ねる。
「ええ。暫く前にここを辞していきました」
　ゆったりとした笑顔で李斎は夫に答えた。
　――ほら。やっぱり朝議が長すぎたのですよ。
　正頼は呟く。けれども李斎は、子供たちはまだ王宮にいるのだ、とも付け加えた。
「子供達には王宮の好きなところで好きなことをして良いと言っておきました。保翠院は出来るだけ大きくつくっておりますが一つ所にいては飽きましょうし、下界は雨天続きで体を伸び伸びと動かす機会も少ないでしょうから」
　それに、と李斎は続ける。
「禁軍の鍛錬場を見たいとか、図書府の本を読みたいとか、そう願い出た子もおりましたし」
　驍宗はここで本題に入った。
「子の中に、李斎に似た少女がいると聞いているが」
「ああ」
　李斎の顔がほころぶ。
「確かに。まるで自分の娘でも見ているような気になりました」
「今どこにいる？」
「禁軍に。鍛錬が見たいと申し出たのがその娘です。もう一、二年したら禁軍に入りたいのだそうですよ」
　そうか、とだけ答えて驍宗は部屋から出て行こうとする。
「あの……」
　李斎がその背中に声を掛けた。驍宗が振り向く。
「ご用事はなんでございましたのでしょう？」
　驍宗は愛妻を見返した。
　――おやまあ。ご夫婦の間ではこんなお顔もなさるんですなあ。
　と正頼が驚くほど柔らかで温かな笑みと共に。
「また夜に話す」
　さようでございますか、と李斎はさらりと返した。一方その隣で台輔が少しばかりどぎまぎしている。
　――ご夫婦なんですからね。夜はお二人ご一緒ですよ。
　正頼は泰麒にそう声を掛けようかと思ったが、驍宗がさっさと禁軍の鍛錬場に向かうので正頼も足早にその後を追った。正頼としては、驍宗が李斎そっくりの少女を見た時の様子を見るのが楽しみでならない。
　――こんな面白そうな場面を見逃してなるものですか。
　台輔がお小さい頃も驍宗様は大切に可愛がっておられた。今度も李斎殿そっくりの少女を見れば、実の娘同様に可愛らしく思し召すに違いない。男親とは概して娘に甘くなりがちなもの。さてこの驍宗様はどんなお顔をなさることやら。