雪中の実

　夜の雨潦宮。その果樹園。李斎は人を探しながらウロウロと樹々の間を歩き回っていた。
「俺だったら、ここですよ」
　ある樹の陰から声が掛かった。鴨世卓が箸を手に、枝に実った紅嘉祥の下に立っていた。箸の先では先程までごちそうにありついていたらしい虫がバタバタと身を捩っている。
「あの……」
　確かに李斎は世卓と話をしたくて夜の果樹園をうろついていたが、いざ本人と出くわすと何からどう話したらいいのかわからない。そもそもこの青年に話してどうなるというのか……。
「お悩みがおありのようですね。白圭宮では口に出せないような」
　穏やかで、対する相手のどんなにささくれ立った心でも包み込むような世卓の笑顔に、李斎の方も少し苦く、けれども少しばかり悪戯っぽい笑みで答える。
「本来でしたら、廉王にこそ口に出してはならないような気鬱です」
　廉王は大きく微笑み、箸と虫とを持っていた袋に放り込んだ。
「それは是非とも伺わなくっちゃ」
　彼のその様子に李斎も口の端を上げて、ふっと息を吐いた。そして二人は四阿に向かった。

　四阿の椅子に腰掛けて一息つくと、李斎が口を開いた。
「廉王は、幼い泰麒に『お役目とお仕事』のお話をして下さいました」
「ええ。……昼間もそのことを言っておられましたね。何か気にかかりますか？」
　世卓が不思議そうに問う。
「廉王はこう仰った。『お役目は天が下すもの、仕事は自分で選ぶもの』と。しかしながら、私には役目も仕事も無いのです」
　李斎は四阿の端の池、その水面に目をやりながら語った。世卓の方はきょとんとした顔で応えた。
「はあ……。でも、お役目なら、貴女には王后というお役目がおありでしょう？」
「王后は必ずしも天から与えられた役目とは言えますまい。現に、王后の居る国と居ない国がある……いや、むしろ居る国のほうが稀です。王后は天に定められた役目というより、たまたま、主上が私を妻に迎えた……ただそれをもって王后と呼んでいるだけのことです」
「あれほどの方の奥さんというのも、大変なお役目だと思いますけど」
　李斎は苦笑して首を振って続けた。
「そして私には仕事もありません」
「ああ……確かに。白圭宮に畑はないでしょうからね……」
　李斎は軽く噴出さざるを得なかっが、それでもやはり悲しげな顔に戻る。
「私の仕事は元々武人でした。そう、私にはかつて武人という仕事があったのです」
　ここで李斎は右肩を動かして見せた。肩から下は、ただの布だけが夜の空気を小さくかき混ぜるだけだった。もちろんなぜそこに腕がないか、事情は廉王も知っている。
「廉王は、『仕事は自分で選ぶもの』と仰った。けれど、私はもう武人という仕事を選ぶことはできません」
　李斎は少し瞑目してから、真剣な表情で廉王を見つめた。
「幼い台輔を励ましてくださったことには、心からお礼申し上げます。しかしながら、『お役目とお仕事』の話は私には聞くのが苦しいのです」
　もっと言えば――。李斎は廉王から目を逸らして畑の土くれに視線を落として言った。
「私は貴方が妬ましいのです」
「妬ましい、ですか？　俺が？」
「世間には仕事を持たずに家で家政に専念する女性も居ることは承知しています。例えば富豪や官吏の妻のように。それを否定するつもりはありません。ただ、自分はそのような生き方をするとは思っていなかった。私には武人という仕事があってそれは私にとってとてもやりがいのある仕事だったのです……」
　李斎は煩わしげに眉根を寄せた。
「人は私を王后と呼び、恭しく接してくる。けれどそれは私が主上の妻であるからに過ぎません。そして、それだけの理由で敬われる存在であることに、私は未だに慣れることができない」
　李斎は目を閉じて言葉を吐いた。
「私は、私自身の仕事が欲しい。私が私らしく居られるような。私自身の手で評価を掴むことができるような。以前はそんな仕事が私にあった。しかしもう、この身体では武人の仕事は適わない。仕事が欲しい、いや、仕事を選ぶことのできる健康な身体が欲しい」
　李斎は廉王がその仕事そのものであるかのように切羽詰まった表情で、彼に視線を戻した。
「廉王、私は貴方が羨ましい。貴方には役目があって仕事がおありです。いや仕事がある、というより選ぶことが出来る健康な肉体をお持ちでいらっしゃる。それに……」
　李斎は夜空を見上げた。戴にもごくたまに雲ひとつなく雪の一片も降らない晴天の夜がある。その空は鮮やかで深く濃い紺の色をしている。そのぴんと張り詰めた色目は、凍える寒さと共に見る者の身を引き締める。対してこの南国の冬空は、星が見えてもどこか靄のかかった柔らかみもあるのだった。
「漣の冬は暖かい。廉王は、温暖な、とても治めやすい土地を国土としておられる。貴方は何もかもに恵まれている。健康にも、気候にも……さまざまな幸運に恵まれて……」
　ここで李斎は激してしまうのを堪えることができなかった。
「同じ人間なのに、恵まれた立場と恵まれない立場がある。同じ人間なのに健康な者とそうでない者がいる。同じ王なのに治めやすい国とそうでない国がある。それなのに、それなのに、貴方は、人間は自分で選択が出来ることを前提に話をなさる。それは、それは……」
　激していても理性はかろうじて残っており、李斎は何とか穏当な表現で話を纏めようとしていた。しかし、もうそれが無理なほど自分が暴走してしまったことに彼女は気付き、言葉に窮して俯いてしまった。
「…………」
「傲慢、ですか？」
　思いもかけない廉王の鋭い声音に、李斎はハッとして世卓を見返した。しかし世卓はすぐにいつもの柔らかい笑みを顔に刷いて、片手で頭の後ろを掻いている。
「これは迂闊だったなあ……。こんなの、ちょっと考えたらわかることなのに……。俺だって、右腕を失ってしまったらたちまち農夫のお仕事が出来なくなりますよね。ごめんなさい。『仕事は選ぶもの』なんて言ったのは間違いでした」
「はあ……」
　あっさりとした謝罪に李斎が戸惑っていると、さらに世卓は不思議なことを言った。
「お礼も言わなきゃいけないなあ」
「……？　礼とは何に……？」
「それはこうですよ。まだ小さな子供でいらした泰台輔に何気なく掛けた言葉を、そんなにちゃんと受け止めていて下さったんですね。台輔だけでなくその周囲の方も。有難うございます」
「いえ……あの……」
　何と応えていいのやら、李斎が指先を唇にあてて少し困った様子なのを見やりながら、世卓の方も少し困った顔をした。
「ええと、俺からはどうお話したらいいかなあ……。ええと……。うん、とりあえず俺のお話をしてもいいですか」
「ええ勿論」
　話の方向は見えないが、事態が先に進むことに軽く安堵しながら李斎は頷き、世卓は遠い目をしながら話し始めた。