書物

　秋官長は西日を背に、王の執務机の前に固い表情で立っていた。
　驍宗が李斎の来訪を聞いて喜んで出迎えにいったら、彼女は花影の室の前でしょんぼりと立っていた。二人の間がうまくいっていないことに、彼は前から気付いていたから驚きはしなかった。李斎を泰麒の部屋へ向かわせると、彼は花影に手が空いたら自分の部屋に来るよう言い置いていたのだった。
　驍宗の方から二、三件政務について秋官長に下問があり、秋官長の方からも何件か奏上があった。いずれも、特に急ぎの用件ではなかった。
　ここからは非公式な話なのだ、ということを示すように驍宗は机に肘を突き、手を軽く組んだ上に顎をのせて、尋ねた。
「花影は以前ほど李斎と親しくないようだが？」
「……」
　長い間花影は言葉を捜して黙っていた。昔からこの秋官長は慎重な性分と知っていたから驍宗も黙って彼女が話し始めるのを待っていた。
　何かを諦めたようなため息を一つついて花影は口を開いた。
「私の中には、李斎を許すための理がないのです」
　少々奇妙な言い回しだった。
「それは、彼女が慶女王に覿面の罪を唆しに行ったことが許せない、ということだろうか」
「いえ、そうでは……。それともまた違うのです。私は、私の中に彼女を許す理を見出すことが出来ないのです」
　何が違うのか彼にはよく分からない。しかし、花影にとっては違うものであり、その違いが重要なものであることはわかった。
「それはどういうことだろう？もう少し具体的に言って欲しい」
　顔を伏せ、床を見つめながら花影は再び口を開いた。
「……この混乱が落ち着きましたら、どうか私を藍州にお戻し下さい」
　頓珍漢で突然な申し出に驍宗は面食う。これは相当思いつめているようだ。
「李斎も自分は役に立たぬから承州に帰りたいといっていたが、そなたもか。私の臣下は冷たいな。主が折角復位したのに仕えたいとは思ってくれないのか」
　冗談をいって花影の気持ちをほぐそうとしたが、彼女はこわばった表情を崩さず、顔を伏せたまま続けた。
「私という人間は、国官をつとめる器ではないのです」
　ふと、花影は顔を上げた。かといって、それは驍宗を見るためではなく、視線を宙にさまよわせながら彼女は話始めた。
「私は幼い頃から書物が大好きな少女でございました……」
　唐突な回想だが、驍宗は黙って耳を傾けることにした。

　花影は裕福な小間物商に生まれた。商人の子だというのに内気でおとなしく、家で書物を読むのが大好きな少女だった。
　そして、彼女はとても優しい少女であった。街で物乞いを見れば必ず、自分で与えられるものは与えていた。
　それから彼女はとても聡明だった。自分一人がおこづかいを施してやっただけでは、何も解決しないことはすぐ分かった。多少年齢がいくと、施す、という行為自体にも、これでは自己満足に過ぎないのではないだろうか、与えられる側の依存を招くだけではないか、と疑念を抱くようになった。
　彼女の両親は、この内気で優しい娘のために一つ決心をした。この子に商人や商人の妻は向いていない。彼らは遠い親戚に県の役人をしていた者がいたことを思い出した。彼なら、娘に役人の道を示してやれるのではないかと思い、彼女を預けたのである。
　彼の書庫に入った少女は自分の大好きな書物が山のようにあるのに喜んだが、一冊一冊手に取るうち困惑の表情を浮かべていった。
「あのう、物語やおとぎ話のご本はないのでしょうか」
「ここにあるのは、地理や歴史、法律、仁や礼に関する論考、そういった内容の書物だよ。こういった本をたくさん読んで、人々が幸せにくらす仕組みを整えていくのがおじさんの仕事なのだよ」
　花影の顔がぱあっと輝いた。自分の大好きな読書が、人を幸せにできるなんて。彼女は、自分は引っ込み思案で、だから庠学でも自分の店でも、ただそこに居る以外に何も役に立つことができないと思っていた。彼女は人の役に立ちたいと願う優しい少女だったから、そのことを気にしていたのである。
　この時から州宰になる頃が、自分にとって最も幸せなときだったと、花影は思う。
　少女は毎日書庫にこもり、親戚の妻が食事に呼びに来てもなかなか気付かないほど熱心に読書にふけった。上の学校に進むのも、役人に採用されるのも、そして州宰に任じられるのも、実際にはそれなりに年月が経っているのだが、振り返ればあっという間に過ぎて行ったように思う。
　常に書物に依拠し、堅実に理論を展開させる能吏であったが、彼女は今下界で侮られているような小役人では決してなかった。何よりも民の幸せが最も大切で、その結論に対して、論拠を書物に求めることで正当性を与えるのが彼女の仕事のしかただった。そして、優しい彼女がこうであるべきと願えば、書物は常に彼女の望む答えを返してくれた。
　しかしながら、国官、しかも秋官長に抜擢されて以降、それまで常に自分を支え励ましてくれた書物は、彼女の傍らにあっても沈黙することが増えた。